テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
床に散らばった血と埃が、夜の湿気を吸って鈍く光っていた。
遥は膝を立てたまま、呼吸だけで身体を支えていた。殴られすぎて腕が使えない。指も震えて言うことを聞かない。
颯馬はその目の前に立ち、まだ息一つ乱れていなかった。
「なあ、遥。何回言った?」
返事ができない。
無視だと判断したのか、颯馬はベルトを握り直した。
しなった革が空気を切り、背中に叩きつけられる。
――音が、痛みより先に脳に届いた。
「“勝手に人に縋るな”。“外に助けを求めるな”。“弟より弱い兄はいらない”。
……何度、教えたと思ってんの?」
棒が脇腹に入る。
遥は声を出さないように、奥歯を割りそうなほど噛み締めた。
その沈黙を確認して、颯馬はしゃがみ込み、遥の顔を覗き込む。
「泣きそうだったんだって? 袖、つまんだんだって? ──誰の許可で?」
遥の肩が痙攣した。
恐怖ではなく、屈辱で。
弱ったから“あんなこと”をしてしまった自分を思い出した。
日下部の袖を、ほんの指先で触れただけ。それでも、兄弟には十分すぎる罪。
「ちゃんとわかってるよな?」
颯馬の手が顎をつかむ。
「おまえは“家のもの”。“弟より下”。“外に助けなんか求めるな”。
……言えよ。言わなきゃ、今夜は終わらせない」
遥は、喉の奥が破れそうなほど乾いていた。
それでも言葉を押し出す。
「……俺は……おまえより……下。
勝手に……触って……すまなかった……」
「弱ぇ声。聞こえねぇよ」
額を拳で殴られ、視界が跳ねた。
意識が途切れかける。
それでも倒れないのは、倒れたらもっと酷いやり方で“起こされる”ことを知っているからだ。
「“助けなんか求めません”」
遥は震えながら続けた。
「……助け……なんか、求めません。
外のやつに……触りません。
家の……ルールに……背きません」
しばらく、颯馬は何も言わなかった。
ただ、遥を見下ろしていた。
そして、満足げにベルトを手放す。
「じゃあ終わり。寝ていいよ」
言い方は優しかった。
内容は処刑の終了宣言に近かった。
颯馬は片付けもせず出ていった。
部屋には、遥の乱れた呼吸だけが沈殿する。
身体はどこを動かしても痛む。
だが眠りは、不思議なほど早く落ちてきた。
痛みより、恐怖より、「終わってくれた」 その事実が勝った。
――そして、朝が来た。
目覚めは、眠ったというより“気を失った意識が戻った”のに近い。
布団は敷いていない。床の冷たさが、皮膚に貼りついていた。
身体の右側が上手く動かない。
背中は火傷のように熱い。
肋骨の奥で、鈍い痛みが息を吸うたびに主張した。
それでも、立たなければならない。
学校があるからではない。
遅れると“また夜が始まる”からだ。
遥は壁を使ってゆっくり起きた。
制服はしわだらけで、袖口には乾いた血が薄く滲んでいる。
鏡は見ない。
見ると“家の顔”が映るから。
冷水で顔を洗い、痣を隠すためだけの最低限の手つきで髪を整え、無表情をつけ直す。
いつもの“普通の顔”。
最後に小さく息を吐いた。
これは深呼吸ではなく、痛みが走らない呼吸の仕方。
そして、玄関を開けた。
夜の音と匂いがまだ皮膚の下に貼りついているまま、朝の光が目を刺した。
――日下部の顔を、今日また見なければならない。
あの袖を、つい触れた自分を思い出しながら。