翌朝、杏樹はいつもよりも遅く目覚めた。
ここ最近引っ越しの準備で忙しく昨日も夜遅くまで荷解きをしてクタクタだったので朝までぐっすり眠れた。
寝転がったまま部屋をぐるりと見回すと新築のような部屋が気持ちいい。
(でもちょっと殺風景だわ。何か飾ってみようかな?)
杏樹は大きく伸びをした後勢いよくベッドから飛び起きた。
今日は午前中伯父の光弘が引越し祝いにプレゼントしてくれたドラム式の洗濯乾燥機が届く予定だ。
杏樹は着替えてからトーストとコーヒーだけの簡単な朝食を済ませる。
食事が終わると早速荷解きの続きを始めた。
その時急にハッと思い出す。
(そうだ……隣には副支店長がいるんだった)
杏樹は再び寝室へ戻ると壁に耳を当ててみる。この壁の向こうは優弥の部屋だ。
しかし物音は何も聞こえない。それもそのはず、ここは高級マンションなので防音機能がしっかりしているのだ。
杏樹はホッと安堵した。
(なんだ全然聞こえないわ。これなら大丈夫ね)
部屋の中にいる限りは隣に優弥がいる事を気にしないで生活出来そうだ。
安心した杏樹はリビングへ戻り荷解きの続きを始めた。
その頃優弥は引越したばかりだというのに優雅な時間を過ごしていた。
リビングに爽やかなジャズが流れる中、優弥はエプロンを着けてキッチンに立っていた。
広いリビングの隅には段ボールが積み上げられていたがそんな事はお構いなしだ。
『質の良い物を食べたい時に食べる』をモットーにしている優弥は引越しの翌日でも手を抜かない。
まあ料理といっても作ったのは昨夜低温調理器に仕込んでおいた鶏むね肉のロール一品だけだ。
むね肉に塩、コショウ、にんにくを擦り込み少し寝かせた後、57℃の低温で時間をかけてじっくり熱を通す。
そうすれば翌朝には高たんぱく抵糖質の健康的な朝食が出来上がっている。
優弥はロールチキンを切り分けて美しく皿に盛ると、サラダとミネラルウォーターと共にテーブルへ運ぶ。
そしてゆっくりと朝食を堪能した。
食事を終えた優弥はふと思い出す。
(そういえば隣はどうなった?)
優弥は皿をシンクに置くとリビングの壁際に行き耳を近づけてみる。この壁の向こうは杏樹の部屋だ。
しかし物音は何も聞こえない。
(当たり前か…)
優弥は自分の咄嗟の行動が可笑しくて思わずフッと笑った。
その頃杏樹の家のインターフォンが鳴った。洗濯機が届いたようだ。
すぐに40階まで持って来てもらい設置してもらう。
作業は30分もかからずに業者は引き上げて行った。
杏樹は説明書にざっと目を通してから早速洗濯物を入れてスイッチを押した。
洗濯機はすぐに軽快に動き始める。
この部屋にはベランダがないので洗濯物を外に干せない。だから杏樹は伯父の光弘にこの洗濯機をリクエストした。
伯父が買ってくれた洗濯機はシリーズの中でも一番グレードが高い物のようだ。
(自分じゃ高くて絶対に買えないわ…伯父さんにお礼を言わないと)
杏樹は椅子に戻るとすぐに伯父の光弘へメッセージを送った。
杏樹が今使っているテーブルは二人掛けの小さな丸テーブルだ。
持って来たソファーは三人掛けで座り心地はいいが布張りの安価な物だ。
天井が高く全面ガラス張りの瀟洒なリビングには不釣り合いな気がする。
(なんかインテリアがアンバランスかも。でも買い替えるとなるとお金がかかるしいつまでもここに住めるわけじゃないし)
そう思うととりあえずこのまま我慢するしかない。
その後杏樹は荷解きに集中した。明日からまた仕事が始まるので今日のうちに少しでも片付けておきたい。
午前中頑張ったお陰でなんとか生活出来る状態には整った。
時計の針は正午を過ぎて既に13時になろうとしていた。
「お腹すいたー」
朝はトースト一枚だけだったのでお腹がペコペコだ。
キッチンへ行き冷蔵庫を開けてみたが飲み物以外は何も入っていない。
「買い物に行かなくちゃ」
ジーンズとカットソーに少し厚手のカーディガンを羽織ると杏樹はエコバッグにスマホと財布を放り込んで部屋を出た。
エレベーターを待っていると人の気配がしたので振り返る。そしてギョッとした。
(なんで?)
杏樹の視線の先にはふかふかの絨毯の上をゆっくりと歩いて来る優弥の姿があった。
(会いたくない人に真っ先に会うってどういう事?)
杏樹は自分の不運を呪いながら仕方なく挨拶をした。
「こんにちは」
「よっ、どう? 片付いた?」
「なんとか生活出来るようにはなりました」
「そりゃ早いな、うちはまだ全然だ。買い物?」
「はい」
その時エレベーターが到着したので二人は乗り込む。
エレベーターの中でも優弥の姿は絵になっていた。
今日の優弥は会社にいる時とは全く違う。
いつもはスーツをビシッと着こなし隙のない印象の優弥だが今日はカジュアルな服装だった。
細身のジーンズにVネックの黒のカットソー、その上にグレーのパーカーを羽織っている。
洗い立てのサラサラヘアが爽やかで口の周りにはうっすらと無精髭が生えている。イケメンがチラリと見せるワイルドさはかなり反則だ。そして今日の優弥はスーツの時よりもかなり若く見えた。
その時良い香りが杏樹の鼻を突く。
それはあの夜杏樹が傍で感じた爽やかなウッディベースのアロマティックな香りだ。
杏樹はその香りを嗅いだ途端あの夜の事を鮮明に思い出し心臓がバクバクと音を立て始めた。
(臭覚ってこんなにも人の心をかき乱すの?)
そんな事を考えていると優弥が杏樹に聞いた。
「引越し蕎麦は食べた?」
「いえ、食べてません」
「じゃあ今から一緒に食べに行く?」
「えっ?」
その時エレベーターが1階に到着し優弥が譲ってくれたので杏樹は先に降りた。
優弥も後に続いて降りるとズンズンと歩き出す。
「ちょっ、副支店長っ、私は大丈夫ですからお気になさらずに」
「縁起物だから食べておいた方がいいぞ」
「で、でも……」
「すぐ近くに美味い蕎麦屋があるみたいなんだ」
優弥は爽やかな笑みを浮かべたままどんどん先へ進んで行く。
なんとなく上司からの業務命令のような気がして杏樹は仕方なくついて行く。3~4分ほど歩くと二人は小さな蕎麦屋の前に着いた。
優弥が暖簾をくぐり店に入ったので杏樹もそれに続く。
「いらっしゃーい、お二人さんだねぇ、どこでも好きなところにどうぞー」
威勢の良いおかみさんが笑顔で二人を迎え入れた。
優弥が窓際の席を選んで座ったので杏樹もしぶしぶと座る。そこへおかみさんがお手拭きとお冷を持ってやって来た。
「注文が決まったら呼んで下さいねー」
優弥はメニューを杏樹に渡すと、
「何がいい? 俺は天もり蕎麦」
「じゃあ私は温かい山菜きのこ蕎麦を」
そこで優弥が手をあげておかみさんに注文した。
「昔は引越しの挨拶に蕎麦を配っていたんだろう? それがいつの間にか引越しをした当人が食べるようになってるんだもんな、不思議だよなぁ」
「近所に配る分を買いに行ったついでに食べたのがきっかけだって聞いた事があります」
「そうなんだ。まあ結局は細ーく長ーくこれからもよろしくねーって感じなんだろうな」
杏樹はうんと頷く。
「それにしてもまさか隣になるとはなー。俺達はよっぽど縁があるんだな」
「た、たまたまですよ、よくある偶然です」
「いや、こんな偶然そんなにないよ。家も隣、バーでも隣、あ、でも職場では前と後ろか……」
優弥がおどけたように言ったので杏樹は思わずクスッと笑ってしまう。
「笑った方が可愛いよ」
「え?」
優弥の甘くソフトな声に杏樹はドキッとする。
「なんか再会してからいっつも俺の事を睨んでるもんな―」
「そっ、そんな事ないです」
「いや、睨んる。それにムスッとしてる」
「…………」
「まあこれからは隣人なんだし職場以外ではざっくばらんにいこうじゃないか」
その時ちょうど蕎麦が運ばれてきた。
「はいよー、お待ちどうさまー」
「おーっ、美味そうー」
「うちの蕎麦は極上品だよー、それに天ぷらも大人気よー」
「ハハッ、本当に美味そうだ。ネタもいいんでしょう?」
「もちろん! 市場が近いからねー」
「ですよね。じゃあいただきます」
「ゆっくり召し上がれー」
おかみさんはご機嫌な様子で厨房へ戻って行った。
優弥が食べ始めたので杏樹も手を合わせて食べ始める。
そして一口食べると驚いた顔をした。
「凄くおいしい」
「だろう? 結構人気の店みたいだよ。ちなみに蕎麦粉は北海道産らしい」
あまりの美味しさに杏樹はハフハフしながら食べ続ける。そして急に思い出したように言った。
「副支店長ってお料理されるんですか?」
「するよ、と言っても簡単なものばかりだけどね。でもどうして?」
「引越しの時に廊下に調理家電が並んでいたから」
「ああなるほど。今低温調理器にはまっててさー、あれいいよなー」
「やっぱりいいですか?」
「うん。夜仕込んどくと朝出来てるしね。シンプルな味付けでも美味く出来るし」
「そうなんですね…」
「使ってみたいなら今度貸すよ」
「いっ、いえいえとんでもありません」
「遠慮する事ないぞ。昔は隣近所で調味料の貸し借りだってしてたんだし」
「それっていつの時代の話ですか?」
杏樹はクスクスと笑い始める。
「昭和の初期だな」
「副支店長生まれてないじゃないですか」
「バレたか」
そこで二人は声を出して笑う。
それからは話題は職場の話へと移っていった。
話をしながら杏樹は優弥の新たな一面を見たような気がした。
ワンナイトの夜は男の色気が漂うスパダリ男。
職場では隙を見せない仕事のデキるハイスぺ男。
しかし今目の前で笑う優弥は隣のお兄さん的な爽やかな印象だ。
(この人は一体いくつの仮面を持っているの?)
杏樹はそんな風に思いながら優弥との会話を続けた。
コメント
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今更ですみません。誰かが言うかな〜、とスルーしましたが、今現在報告が無いようなので。 優弥の会話、「いや、睨んる、、、」←「で」抜けですかね(汗) 失礼しましたm(_ _)m
杏樹ちゃんが思いっきり警戒しているから、優弥さんはマンションでは“隣の爽やかお兄さん”を装ってるのかな?押したり引いたりの戦法なのかしら? 優弥さんがどうやって杏樹ちゃんを堕とすのか楽しみです! ふたりが次に甘い夜💕を過ごすのはいつになるのかなぁ🤭
お互いに壁に耳をつけてお互いの部屋の様子を探ってる描写、気が合う二人って感じがしてすごく好きでした٩(ˊᗜˋ*)و