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依頼人は、夕方の静かな時間帯に現れた。探偵社のドアを叩く音は弱く、二度目でようやく真琴が気づく。


「どうぞ」


入ってきた男は、三十代前半に見えた。背筋は伸びているが、どこか緊張が抜けきらない。

スーツは古くはないが、着慣れていない印象だった。


「こちらに座ってください」


真琴の声に促され、男は腰を下ろす。

燈は腕を組み、玲は無言でメモを開き、澪は視線を伏せる。

伊藤は奥のデスクで、書類の仕分けを続けていた。


「今日は、どういったご相談ですか?」


男はすぐには答えなかった。

数秒、呼吸を整えてから、慎重に口を開く。


「……事件では、ありません」


「は?」


燈が即座に反応する。


「被害届も出ていませんし、警察沙汰にもなっていません。ただ——」


男は一度、言葉を切った。


「社会的に、終わりました」


真琴は表情を変えずに頷く。


「具体的に教えてもらえますか」


「三年前まで、地方自治体と関わる仕事をしていました。直接雇用ではありませんが、継続的な業務で、評価も悪くなかった」


玲のペンが動く。


「ところが、ある時期から、仕事が来なくなりました。理由を聞いても、『今回は別の方に』『状況が変わった』と曖昧な返事ばかりで」


「よくある話だろ」


燈が言う。

男は苦笑した。


「ええ、最初はそう思いました」


「でも?」


「同時期に、知人から距離を置かれるようになったんです。明確に拒絶されたわけではありません。ただ……連絡が返ってこない。会っても、話が続かない」


澪の指が、静かに唇に触れる。


「何か、きっかけになる出来事は?」


真琴が尋ねる。


「ありません。少なくとも、私は覚えていない」


「トラブル、噂、内部告発とか」


燈が畳みかける。

男は首を横に振る。


「何も」


「じゃあ、誰かに責められた?」


玲が続ける。


「いいえ。むしろ皆、親切でした」


「……親切?」


燈が眉を寄せる。


「『誤解があった』『気にしないで』『仕方がなかった』。そう言われました」


その言葉に、玲の手が一瞬止まる。


「同じ言い回し?」


「ほぼ」


「誰が?」


「仕事関係者も、昔からの知人も」


真琴はゆっくり頷いた。


「それで、今は?」


「契約は全て切れ、再就職もうまくいきません。理由を聞くと、『今回は見送る』『ご縁がなかった』」


「前歴は?」


玲が確認する。


「問題になるようなものはありません」


「犯罪歴も?」


「ありません」


室内が静まる。

伊藤が、そこで初めて口を開いた。


「つまり——」


全員の視線が向く。


「公式な“被害”は存在しない。でも、結果として生活基盤が壊れた」


男は深く頷いた。


「はい」


「誰かを訴えたい?」


真琴が聞く。


「いいえ」


即答だった。


「誰かを悪者にしたい?」


「それも、ありません」


「じゃあ、何を知りたいんですか」


玲が問う。

男は少し迷ってから、言った。


「……自分が、何かしてしまったのかどうかです」


「覚えてないのに?」


燈が苛立つ。


「覚えていないから、です」


真琴は一拍置いて、微笑んだ。


「なるほど。じゃあ今回は、“犯人探し”じゃないですね」


「はい」


「状況整理と、経緯の確認」


玲がまとめる。


「結論が出なくても?」


真琴が念を押す。

男は小さく頷いた。


「それでも構いません」


伊藤は依頼書を取り出しながら、穏やかに言った。


「記録に残らない案件だな。噂、空気、集団心理」


燈が鼻で笑う。


「一番厄介だな」


「でも、珍しくはない」


伊藤は淡々と続ける。


「“誰も悪くない”結論に収束することが多い」


真琴は「それでも」と依頼書を差し出した。


「調べます」


男はサインをし、立ち上がる。

去り際、少しだけ振り返った。


「……皆、悪い人じゃなかったんです。本当に」


ドアが閉まる。

沈黙。


「被害者がいない事件、か」


燈が吐き捨てる。


「被害はある」


玲が言う。


「責任が分散して、消えただけ」


澪は何も言わない。

伊藤は依頼書をファイルに綴じ、資料棚に向かいながら、いつもの調子で呟いた。


「最初から形が整っていない事件ほど、後で“整えた痕跡”が見えるものだ」


誰も、その言葉を深く追わなかった。

ただ、空気だけが、静かに重くなっていた。

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