放課後の相談室は、いつもより少し明るかった。窓の外の冬の光が、ゆっくりと床をなでている。
日下部は机に肘をつきながら書類を閉じ、扉の前で立ち尽くしている来訪者に目を向けた。
「……入っていいよ。そこで固まってても、寒いだけだろ」
声は素っ気ないようでいて、かすかに気遣いが滲んでいる。
その“温度差のある不器用さ”に背中を押されるようにして、生徒がゆっくりと入ってきた。
椅子に腰を下ろしても、手の指先が震えている。
「で、今日は?」
日下部が問うと、視線は机の木目の上で泳ぎ、しばらく沈黙が落ちた。
ようやく、か細い声がこぼれる。
「……あのさ。俺、優しくしたつもりだったのに……なんか、余計だったっぽい」
日下部は瞬きもせず、その一言をしっかり受け止めた。
「どんなふうに?」
「えっと……クラスのやつが最近ちょっと落ち込んでたから、ノート貸したり、話聞こうとしたり……。
でもさ、“ありがと。でも大丈夫だから”みたいに言われて……なんか、距離置かれた感じで」
そこで言葉が途切れた。
言いながら、自分の胸の奥がじわっと痛むのを堪えているのが分かる。
日下部は深く息を吸って、ゆっくり吐き出した。
「……優しさってさ。渡すタイミング間違えると、ただの刃物になるんだよな」
その言葉に、生徒が顔を上げた。
日下部は続けた。
「相手が“弱ってる時”って、受け取れる余裕がないこともある。
善意だろうが、救おうとしてようが、本人が“まだ触れられたくない”状態だと、避けるのは普通だよ」
「……じゃあ、俺が悪かったってこと?」
「悪いわけじゃない。
ただ、お前の優しさが“今じゃなかった”ってだけだ」
静かな声だった。決して責めず、ただ事実としてそこに置かれている。
日下部が少し視線を伏せながら言う。
「俺もよくやるよ。気づく前に手を伸ばして、相手から距離置かれるやつ。
……優しさって、難しいよな」
その告白めいた言葉に、生徒の表情がわずかに緩んだ。
「でもな。
優しさが空回りしたからって、優しいやつが悪いわけじゃない。
むしろ——“相手の領域を尊重できるほどの優しさ”を、これから覚えていく段階だってことだ」
生徒は、膝の上で握った拳をほどきながら、かすかに息をついた。
日下部は続ける。
「それに……優しさってのは、お前が思ってるより強ぇよ。
受け取られなかったからって消えるもんじゃない。
相手の反応がどうあれ、お前が“誰かを気にかけた”って事実は残るんだ」
やわらかい沈黙が落ちる。
さっきまで張りつめていた生徒の目に、ゆっくりと色が戻っていく。
「……じゃあ、もう一回だけ様子見てみてもいいかな」
「うん。
ただ、“助ける”とか“支える”は後にして、まずは普通に話すところからな。
相手が求めてる距離に合わせるのも、優しさの一つだろ」
「……なんか、ありがとな」
立ち上がった生徒の背中に、日下部はふっと声をかける。
「お前のは余計なお節介なんかじゃないよ。
ただ……少しだけ、先回りしすぎるだけ」
照れたように、しかし確かに優しい声だった。
生徒が扉を閉めると、相談室には再び静けさが戻った。
日下部は窓の外の色を眺めながら、小さく呟く。
「……優しさって、ほんと難しいよな」
その横顔には、不器用な人間なりの慈しみが静かに浮かんでいた。
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