コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
放課後の静まり返った教室は、外よりも冷たい空気をまとっていた。廊下のざわめきが遠くでちぎれ、窓のガラスだけが薄く光っている。
日下部は机に肘をつき、目の前で肩をすぼめている相手を静かに見つめた。
「それで……言われたんだな。“大丈夫だよ”って」
相手はうつむいたまま、小さくうなずく。
「うん。でも……なんか、あれ言われると、余計に苦しくなるんだ。励まされてるのは分かってるのに……自分だけ置いていかれてるみたいで」
その声音は、机に落ちた影のように薄く震えていた。
日下部は一度視線を窓へ投げる。夕焼けも消えかけた空の端に、僅かな青さが残っている。
その色の沈み方が、妙に「遅れている誰か」を思わせた。
「……そう感じるのは、別に間違いじゃない」
相手が顔を上げた。
「日下部は、そういう時……ないの?」
「ある。俺だってある」
彼は淡々と答えた。感情を抑えているように見えるのに、不思議と冷たさはなかった。
「“大丈夫だよ”って言葉ほど、人を突き放すものはない。あれはな、言った側が“もう理解したつもり”でいる時ほど軽くなるんだ」
「……理解したつもり、か」
「そう。相手が追いついてないことに気づかないまま、先に歩いていく」
相手は唇をかむように閉じ、しばらく黙り込んだ。
日下部はその沈黙を急かさない。むしろ、沈むままにさせるように視線を落とした。
「取り残されてる気がするのって……自分が弱いからなのかな」
「違う」
きっぱりと言い切る。
「むしろ、ちゃんと自分の感覚を見ているってことだ。周りに合わせて無理やり笑ったり、“平気な顔”を作れる方がよほど器用だよ」
相手は目を瞬かせた。
その反応に、日下部は少しだけ息を吐く。
「それに……“大丈夫”が苦しくなるのは、お前が本気でしんどい証拠だ。軽い言葉に乗せて流せるような痛みじゃない」
「…………」
「だから、お前は悪くない。取り残されたんじゃない。痛みの深さが、周りと違いすぎただけだ」
教室の静けさが、ふたりのあいだだけゆっくり満ちていく。
窓をかすめた風がプリントを揺らし、紙の端がかすかな音を立てる。
「日下部はさ……なんでそんなふうに言えるの」
「……人の言葉に救われるのを、期待していないから」
彼は静かに笑った。苦味の残る、薄い笑みだった。
「人間が“本当に大丈夫”になるのって、誰かの一言で変わるほど単純じゃないだろ。……だから俺は、急かさないだけだ」
「急かさない……?」
「そう。お前のペースでいい。立ち止まってるなら、それでいい」
相手は、肩からほんのわずか力が抜けたように見えた。
「……大丈夫じゃないままで、いいの?」
「いい。むしろ、その方が正直だ」
日下部の声は低く落ち着いている。
その冷静さは、冷たさではなく、ただ相手を無理に動かそうとしない種類の静けさだった。
「誰も、お前を追い立てたりしない。少なくとも……俺は」
その言葉に、相手は小さく息を吸った。
日下部の方へ向ける視線は、さっきよりもずっと澄んでいた。
「……ありがとう」
「礼なんかいらない。ここは相談室だろ」
日下部はわずかに視線を逸らす。
それは照れとも優しさともつかない微妙な表情だったが、彼自身は意識していない。
――大丈夫じゃない自分を、無理に隠さなくていい。
言葉にしなくても、その姿勢だけで伝わるような空気が、日下部の周囲には確かにあった。