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撮影が一区切りつくと、照明が落とされ、昼間とは別人のように静まり返ったスタジオに冷気が戻る。
「……はぁ」
泉は長椅子に腰を下ろし、汗ばんだ襟元を緩めた。
たかが一時間の撮影なのに、胸の奥がまだ整わない。
呼吸も、視線も、さっきの“構図”に囚われたままだ。
休憩室の扉が開く音で、肩がわずかに跳ねた。
「水、飲む?」
柳瀬が入ってきた。
タンブラーを二つ持っている。
照明とは違う、落ち着いた薄暗い光の中で、彼だけが輪郭を持つ。
「……ありがとうございます」
泉が手を伸ばすと、
渡されたタンブラーの指が、自然な動作の中で触れた。
ほんの一瞬。
けれど、それだけで脈が跳ねる。
壁際の狭い休憩室。
二人でいるには、少し近すぎる空間。
柳瀬は泉の隣に腰を下ろす。
わざとではない距離感——そう見える。
だが、泉はもうその“偶然”を信用できない。
「疲れた?」
「……少し。あの、さっきの……」
柳瀬が横目で泉を見る。
濃い黒の瞳に、泉の小さな動揺まで映ってしまいそうで、
言葉が詰まる。
「……さっきの撮り方って、演出なんですか?」
自分でも幼い質問だと思った。
だが、聞かずにはいられなかった。
わざと逸らさせない視線。
逃げられない位置取り。
命令と、呼吸のタイミング。
全部“仕事”なら、それでいい。
そう思いたかった。
柳瀬はタンブラーの蓋を指で弾きながら、少しだけ笑った。
「演出だよ。……仕事だから」
「そう、ですか」
安心したはずなのに、胸の奥がざらりとする。
仕事なら、誰にでも同じことができる。
自分だけではない。
それが、妙に寂しかった。
柳瀬は続ける。
「でも」
その声の低さに、泉の手が止まる。
「お前の反応が良かったのは……仕事に関係なく、事実だ」
「……っ」
「息が揺れた時の顔、わかってる? あれ、役者として悪くないよ」
言いながら、柳瀬はタオルを取り出し、泉の額に触れた。
軽く汗を拭うふり——だが、その指先は必要以上にゆっくりだった。
「柳瀬さん、それ……自分でできます」
「わかってる。けど」
近い。
声が耳に触れる距離。
「こうした方が、素直に反応するだろ」
「……反応なんて……してません」
そう言いながら、肩がまた僅かに震える。
柳瀬は気づいている。
気づいたうえで、何も言わない。
ただ、笑う。
その笑いが、泉の理性をじわじわと削った。
「休憩終わったら、次は距離のレッスンする」
「きょ、距離?」
「ああ。お前、まだ30センチの距離で顔作れないだろ?」
確かに。
カメラが近づくと、意識しすぎて表情が固まる。
「……練習、必要だよな」
言いながら、柳瀬は泉の膝に視線を落とし、
そのままゆっくりと顔を上げてくる。
“距離”という言葉とは裏腹に、
二人の間の空気は、どんどん密になっていく。
「……今日のは、全部仕事ですよね?」
泉は確かめるように問いかけた。
柳瀬は一拍置いて——笑った。
否定しない。
肯定もしない。
ただ、その沈黙だけが、泉の胸を深く締めつけた。
休憩室の空気は、
狭いはずなのに底が見えず、
泉はそこに飲み込まれそうになった。
扉の向こうでスタッフの足音がして、
二人の距離だけが、一度も解けないまま休憩は終わった。