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鍋のふたを開けた瞬間、白い湯気がふわりと広がった。キッチンの小さな照明がぼやけて、視界が一瞬やわらぐ。
「……曇った」
真白が少し身を引く。
アレクシスは火力を落とし、鍋の中をのぞき込んだ。
「もう少し弱くていい」
「さっきから弱いよ」
「真白基準だと強い」
「失礼だな」
そう言いながらも、真白は素直にコンロのつまみを回す。
カチ、という小さな音と同時に、鍋の中の動きが静かになった。
「これでいい?」
「うん。鍋が落ち着いた」
「鍋の気持ち、わかるんだ」
「今のはわかりやすい」
「じゃあ俺は?」
「……今は、ちょっと騒がしい」
「ひどい」
箸を持つ手が、わざとらしく止まる。
「白菜、先に入れすぎ」
「好きだから」
「後で入れた方が甘くなる」
「今も甘い」
「それは煮えたから」
「違う意味も含めて言った」
アレクシスが顔を上げる。
真白は目を逸らし、鍋の中を見つめたまま言った。
「……何その顔」
「確認しただけ」
「何を」
「どこまで本気か」
「鍋の話だよ」
「半分は?」
「……半分は、そう」
沈黙が落ちる。
気まずさではなく、湯気と一緒にゆっくり沈んでいくような間。
アレクシスが箸を伸ばし、具を軽く混ぜる。
その拍子に、真白の箸と触れた。
「あ」
「ぶつかった」
「ごめん」
「同時だった」
「じゃあ、引く」
真白が箸を引こうとするのを、アレクシスが止める。
「いい」
「え」
「今日は、真白が先」
「どうしたの、急に」
「たまには」
「そういうの、慣れてない」
「嫌?」
「……嫌じゃないけど」
「じゃあ問題ない」
器に取り分けられた具から、湯気が細く立つ。
真白は息を吹きかけてから、慎重に口に運んだ。
「……熱い」
「無理しないで」
「してない」
「してる顔」
「顔は関係ない」
アレクシスは少し身を乗り出す。
「近い」
「湯気で見えなかった」
「言い訳」
「言い訳でもいい」
そう言って、距離を戻す。
「味、どう?」
「薄い」
真白が即答する。
「でも」
「でも?」
「嫌じゃない。これ」
「薄いのに?」
「薄いから」
「……それ、褒めてる?」
「かなり」
アレクシスは小さく息を吐いて笑った。
「じゃあ成功」
「うん。成功」
再び箸が動く。
静かな音だけが、キッチンに残る。
「ねえ」
「なに」
「明日も、これ食べる?」
「連続?」
「だめ?」
「んー……」
「即答しないんだ」
「考えた」
「結果は?」
「……あり」
真白は少しだけ肩を緩める。
「じゃあ、材料残しとく」
「計画的だね」
「冬はそういう方がいい」
「理由、それ?」
「それもある」
「もう一個は?」
「聞く?」
「聞きたい」
「……あったかい時間、続くから」
鍋が、ことりと小さく音を立てる。
火は弱いまま、湯気だけが静かに上がり続けていた。
「次、どれ取る?」
「真白の好きなやつ」
「また?」
「今日は譲る日」
「ずるい」
「知ってる」
そう言って笑う声は、湯気の向こうで少しだけ柔らかく響いた。