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#現代ファンタジー
るるくらげ
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忘れられた者たちは、完全に戻るわけではない。
死は死のままだ。
それでも、名だけは残る。誰がいたのか、どう生きたのか、どう別れたのか、それを覚えておける朝が来たのだ。
*
七日後。
被害記録局の看板は、半分だけ新しくなっていた。
古い木板の「被害記録局」の横へ、まだ白木のままの補助板が打ちつけられている。
『名前を守る役所』
ニッキーの字だ。几帳面すぎて遊び気がない、とレドルフが文句を言い、だったら自分で書けと言われて口をつぐんだ結果である。
局内は相変わらず忙しい。
鬼害がすぐにゼロになったわけではない。迷も完全には消えていない。ただ、鬼を斬って終わりにするやり方しか知らなかった都に、別の手順がひとつ増えた。奪われた名を拾い、返し、残す手順だ。
ロビサは新しい記録机の前で、正式任用の辞令をにらんでいた。
見習いの二文字が消え、その下に「被害記録官」とある。
「うれしそうな顔が下手ですね」
書類を持ってきたヴィットリアーナが言う。
「今、練習中です」
「もっとましな言い訳を覚えなさい」
それでも彼女は、前みたいに目を逸らさなかった。
三年前の傷が消えたわけではない。けれど、黙ったまま背中を向ける関係はもう終わった。書類の受け渡しのついでに嫌味を言い合えるくらいには、同じ場所へ戻ってきている。
工房の奥ではリュバが新しい記録針の調律をしていた。
モンシロは若手へ撤退と救出の手順を怒鳴りながら、以前ほど決断をためらわなくなった。エナシェは鍋のふたを開けて薬草の香りを流し、レドルフは廊下で勝手に局歌を作って追い出されている。レイノルデはその全部を見て、特に止めるべきでないものだけ見逃していた。
そして、開け放した窓のそばでは、見慣れた青年が書類の山と格闘している。
「なんで補助員が戸籍照合までやるんだよ」
「押しかけで名乗ったからです」
ロビサは辞令を畳みながら答えた。
「しかも字が汚い」
「命がけのあとで字の説教する?」
「します」
「ひどい職場だな」
ハディジャはぶつぶつ言いながらも、逃げずに椅子へ座っていた。
あの日のあと、彼は半ば押しかけ、半ば全員から当然のように働かされる形で補助員になった。現場の裏道に強く、迷の気配にも敏い。書類仕事だけが致命的に向いていない。
ロビサは彼の机へ湯気の立つ茶碗を置いた。
「差し入れです」
「毒見は?」
「必要ですか」
「おまえがいれると苦い」
「薬草茶ですから」
「やっぱりひどい職場だな」
そう言いながら、ハディジャは素直に受け取った。
湯気の向こうで目が合う。
百年前の残響はもう割り込んでこない。ただ、今ここにいる二人の沈黙だけがあった。前みたいに険悪ではない。だからといって、気取ったことを言えるほど器用でもない。
「……なあ、ロビサ」
「なんですか」
「今度、休みが合ったら」
そこで彼は一度咳払いをした。
「市場の串焼き屋、奢る。借りが多すぎるから」
「それは借りを返す顔ではありませんね」
「じゃあ、礼」
「もっと下手です」
「うるさいな」
ロビサは笑いそうになって、わざと視線を辞令へ戻した。
けれど、口元はたぶん隠しきれていない。
窓の外では、朝の鐘が鳴っている。
誰かの名を消すための鐘ではない。仕事が始まる、ありふれた朝の合図だ。
夜霧はまだ都のどこかに残る。
迷も、痛みも、簡単にはなくならない。
それでも、名を書き残す手がある。呼び返す声がある。同じ鍋を囲み、同じ朝を迎え直す人たちがいる。
ロビサは新しい記録帳を開き、最初の頁へ日付を書いた。
その横でハディジャが、相変わらず汚い字で補助員欄へ署名している。
百年前の恋は、もう二人のあいだへ割り込まない。
未完だった願いを受け取ったうえで、それとは違う歩幅で、違う朝を重ねていく。
口喧嘩から始まった関係は、まだ名前をつけるには少し早い。けれど、少し早いくらいがちょうどいいのかもしれないと、ロビサは思う。
彼女は帳面から顔を上げた。
「ハディジャ」
「ん?」
「呼んだだけです」
「なんだそれ」
「記録確認です」
「便利な言い訳覚えたな」
返ってきた声が、ちゃんと今の彼の声だったので、ロビサは今度こそ笑った。
名前の残る朝は、一日だけでは終わらない。
これから先も何度でも書き直し、守り直していくものだ。
だから今日も、被害記録官は名を記す。
その隣で、半ば押しかけの補助員が文句を言う。
そうしてルクスバールの朝は、ようやく人のものになっていった。
【終】 【完】