テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
距離を置く、という言葉は便利だ。拒絶ではない顔ができるし、逃げとも言わずに済む。
日下部は、それを“自分で選んだ”と思いたかった。
――今は、タイミングが悪いだけだ。
――遥のためにも、少し静かにしておいた方がいい。
そう繰り返しながら、廊下を歩く。
放課後の教室は、まだ人が残っている。
騒がしくはないが、視線は散っている。
関心があるようで、誰も踏み込まない。その種類の空気。
遥は、一番奥の席にいた。
鞄を膝に乗せ、じっと床を見つめている。
立ち上がる気配もない。
一瞬、声をかけようとして、日下部は足を止めた。
――今は、やめたほうがいい。
理由は、すぐに思いつく。
周りの目。
噂。
また何か言われる可能性。
正しい判断のはずだった。
「……日下部」
横から、蓮司の声がした。
「帰る?」
何でもない誘い方。
断っても問題ない口調。
「あ、ああ」
答えてから、遥の方を見る。
視線は合わない。
蓮司は、その様子を何も言わずに受け取る。
「無理すんなって。今、変に目立つとさ」
階段を下りながら、ぽつりと言う。
「余計こじれる」
こじれる、という言い方が引っかかった。
何を?
誰が?
でも、その問いは口に出せない。
階段の途中で、下から笑い声が上がる。
例の連中だ。
こちらを見て、わざとらしく会話を区切る。
「お。いい判断じゃん」
誰かが言った。
「日下部、賢いよな」
賢い。
その言葉に、胸の奥が冷たくなる。
何もしていないのに、
“こちら側”に分類されている。
遥の視界に、その光景が入っているかどうかは分からない。
分からないままの方が、余計に重かった。
外に出ると、蓮司が歩幅を合わせる。
「な?」
軽い声。
「俺たちが何か言わなくてもさ、
向こうが勝手に判断するんだよ」
“向こう”という言葉に、遥は含まれていない。
含まれていないように聞こえる。
「お前が冷静でいれば、それでいい」
冷静。
それも、正しい言葉だ。
日下部は、頷いてしまいそうになる自分を、かろうじて止める。
――本当に、これでいいのか。
でも、立ち止まって振り返る勇気もない。
その夜、スマホに触れたまま、何度も画面を消した。
遥の名前を出して、何か送ろうとして、やめる。
“今は距離を置いた方がいい”
その判断が、どこから来たものなのか、
もうはっきりしなくなっていた。
翌日、遥は休んでいた。
理由は誰も詳しく知らない。
腹を壊したとか、体調不良だとか、
適当な説明が共有されるだけ。
蓮司は、それを聞いても表情を変えなかった。
「まぁ、そういうこともある」
それだけ。
誰も心配を深掘りしない。
しない方が、楽だから。
日下部は、空いた席を見つめた。
――俺は、距離を置いただけだ。
――見捨てたわけじゃない。
何度も、心の中でそう言い直す。
けれど、
“距離を置く”という選択肢が、
こんなにも誰かを孤立させるものだとは、
選んだときには考えていなかった。
蓮司は、何も言わない。
何も強制しない。
その沈黙が、
日下部に“自分で選んだ”という感触だけを残し、
決定的な一歩を、もう後戻りできない形で刻んでいた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!