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久我は、取り調べ室に入った瞬間、違和感を覚えた。
黒瀬の姿勢はいつもと同じ。視線も、表情も変わらない。
それでも、空気だけが一段、張りつめている。
「今日は、少し時間を取る」
久我はそう言って椅子に座った。
録音機のスイッチを入れる音が、やけに大きく響く。
「選別の話をした」
黒瀬は頷いた。
「あなたは、疲れています」
「答えになっていない」
「ええ。でも、境界に立っている人の共通点です」
久我は、机の上の資料を指で叩いた。
「君を犯人に仕立てる流れがある。
それを止めるには、君が語るしかない」
「止めたいのは、事件ですか」
黒瀬は静かに問い返す。
「それとも、あなた自身ですか」
久我の胸の奥で、何かが軋んだ。
「……黙れ」
声が、思ったより強く出た。
黒瀬は目を見開かず、ただ久我を見つめている。
「あなたは、境界を守ろうとしています」
「違う。私は――」
「正義と保身。
職務と共感。
その線を、踏み越えないように」
久我は立ち上がった。
椅子が床を擦り、音が鳴る。
「私は、君の分析対象じゃない」
「でも、人間です」
黒瀬の声は、変わらない。
「だから、壊れます」
その一言で、久我の中の何かが切れた。
「……君は、自分がどこまで許されているか分かっているのか」
「分かっています」
黒瀬は即答した。
「ここまでです」
そう言って、机の端に指先を置く。
久我との距離は、ほんの数十センチ。
「この線を越えたら、あなたは戻れない」
久我は、息を荒くした。
それでも、視線を逸らさなかった。
「君は……私を試している」
「いいえ」
黒瀬は、ほんのわずかに首を振る。
「確認しています」
「何を」
「あなたが、どこまで耐えられるか」
久我は、無意識に一歩踏み出していた。
机越しに、黒瀬の顔が近づく。
「……やめろ」
それは命令ではなく、懇願に近かった。
「ここが境界です、久我さん」
黒瀬は低く言う。
「あなたが越えれば、
もう“捜査官”ではいられない」
久我の指が、机の縁を強く掴む。
一瞬、触れそうな距離。
その緊張に、黒瀬は目を細めた。
――微笑んだ。
それは勝利の笑みではなかった。
確認が取れた者の、静かな表情だった。
久我は、はっとして一歩引いた。
荒い息を整え、椅子に座り直す。
「……今日は終わりだ」
「はい」
黒瀬は従順に頷く。
「でも、覚えておいてください」
久我がドアに手をかけた、その背中に言葉が届く。
「境界は、守るためにあるのではありません」
久我は振り返らなかった。
「越えた人間を、
元に戻れなくするためにあります」
ドアが閉まる。
久我は廊下に立ち尽くし、額に手を当てた。
今の一歩で、越えたのか。
それとも、踏みとどまれたのか。
その判断すら、
すでに黒瀬の視線の中に組み込まれている気がしてならなかった。
境界線は、まだ残っている。
だがそれは、守ってくれる線ではない。
次に越える場所を、正確に示すための線だった。