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教室の時計は、もう五時を過ぎていた。
外はまだ明るいのに、廊下は静まり返っている。部活の声も聞こえない、切れ目の時間だった。
遥は机に肘をつき、何も書かれていないノートを前にしていた。
相談室と呼んでいるが、実際には「ここにいる」という事実だけがある場所だ。
扉が、ためらうように開いた。
相談者は中に入ると、扉を閉める手を途中で止めた。音を立てていいのか分からない、そんな迷い方だった。
結局、そっと閉める。
椅子に座るまでにも時間がかかった。
腰を下ろしてからも、視線は定まらない。
「……話していいですか」
遥は短く頷いた。
相談者は、少し考えるように間を置いてから口を開いた。
「自分の話をしてると……自分の話じゃないみたいになるんです」
声は落ち着いているが、内容だけが浮いていた。
「誰かに説明するときも、頭の中で整理してるはずなのに、
“あ、これって本当に自分のことだっけ”って」
相談者は自分の手を見つめる。
「言葉は出てるのに、実感が追いつかない。
つらかったはずのことも、口に出すと急に平らになる」
遥は黙って聞いている。
「だから、話し終わると……何も残らない感じがして」
相談者は小さく息を吐いた。
「“ちゃんと話せたね”って言われても、
話したのが本当に自分なのか分からなくて」
窓の外で、風が木を揺らす音がした。
「現実感がない、って言うと大げさかもしれないですけど……
自分の人生を、外から見てるみたいな感じがずっと続いてます」
遥は、少し間を空けてから口を開いた。
「話してるとき、体はどうなってる」
相談者は一瞬戸惑い、それから答えた。
「……あんまり、何も」
「痛いとか、重いとか」
「分からないです」
即答だった。
「ただ、終わったあとに、すごく疲れます」
遥は、それ以上質問を重ねなかった。
「自分の話が遠く感じるときってさ」
淡々とした声だった。
「その場で生き残ることが、優先されてた時間が長いと起きやすい」
相談者が顔を上げる。
「感じるより先に、“ちゃんと話す”ことを覚えると、
気持ちはあとから置いていかれる」
相談者の目が、わずかに揺れた。
「……それって、戻るんですか」
遥はすぐに答えなかった。
「急には戻らない」
正直な言葉だった。
「でも、“おかしい”わけじゃない」
相談者の肩が、少しだけ下がる。
「話してるのに現実感がないのは、
その時の自分が嘘をついてるからじゃない。
“感じる余裕”が、まだそこに来てないだけだ」
相談者は、机の縁を指でなぞった。
「じゃあ……どうしたら」
「無理に実感を持とうとしない」
遥は続ける。
「ちゃんと話せてるなら、それでいい。
あとから、少しずつ追いつくこともある」
相談者は小さく笑った。
「追いつかないままだったら、どうしようって思ってました」
「追いつかなくても、生きてはいる」
遥の言葉は、慰めではなかった。
「実感がない状態で生き延びるのも、一つのやり方だ」
相談者は黙ったまま、何度か瞬きをした。
「……自分の話なのに、自分がいない気がして、怖かった」
「怖いと思えるなら、まだ離れきってない」
遥はそう言った。
「完全に切れてたら、怖さも感じない」
相談者は、その言葉を噛みしめるように頷いた。
しばらくして、椅子を引く音がした。
「……ありがとうございました」
遥は目を上げ、軽く頷いた。
相談者が教室を出ていくと、また何も起きていない時間が戻ってくる。
遥はノートを閉じたまま、窓の外を見る。
自分の声が遠く感じるのは、生きていない証拠じゃない。
まだ、そこに戻る準備が整っていないだけだ。
そして準備は、言葉よりずっと、時間がかかる。