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放課後の教室は、音が少なかった。
机を引く音も、廊下を走る足音も、今日はもう届かない。夕方の光だけが、黒板の端に薄く残っている。
遥は窓際の席に座っていた。ノートは閉じたまま、ペンも持っていない。ここにいる、という状態を崩さずに待つ。
扉が、ゆっくり開いた。
相談者は一歩入って、立ち止まった。視線が天井から床へ落ち、最後に出口へ戻る。逃げ道を確認する癖が、体に染みついている。
椅子に座るまで、数秒。
座ってからも、背もたれには寄りかからなかった。
「……今は、何も起きてないんです」
最初の言葉は、言い訳みたいだった。
遥は頷かない。続きを待つ。
「学校も、家も。表向きは、普通で。
誰かに何か言われたわけでも、されたわけでもない」
相談者は、指先を見つめる。
「でも……ずっと考えてしまうんです。
“また始まるかもしれない”って」
声は小さいが、迷いがない。
言い慣れている言葉だった。
「朝、家を出るときも。教室に入る前も。
何も起きてないのに、心臓が先に反応して」
相談者は胸のあたりを、軽く押さえた。
「今日は平気だった、って思った瞬間に、
“いや、まだ分からない”って声が頭に出てくる」
遥は、机の上に視線を落としたまま聞いている。
「周りから見たら、ただの不安症みたいに見えると思います。
でも……前に、急に始まったことがあって」
そこで言葉が途切れた。
説明は、続かなかった。
「予兆なんてなかったんです。
昨日まで普通で、次の日から急に」
相談者は、息を吸い直す。
「だから、何も起きてない時間がいちばん怖い。
静かなのが、合図みたいで」
遥は、短く言った。
「体が覚えてる」
相談者の視線が上がる。
「終わったかどうかを、頭より先に判断する」
相談者は、ゆっくり頷いた。
「終わったって、誰も言ってくれないんです」
言葉は、淡々としていた。
「“もう大丈夫”って言われても、
その人がいなくなった瞬間に、全部戻る」
遥は少し間を置いてから、続ける。
「また始まるかもしれない、って考えが消えないのは、
考えすぎだからじゃない」
相談者の指が、わずかに緩む。
「一度、始まったことがあるからだ」
遥の声は低い。
「急に始まったものは、急に終わったって信じにくい」
相談者は、喉を鳴らした。
「じゃあ……このままずっと?」
遥は、即答しなかった。
「弱くはなる」
断言でも、希望でもない言い方だった。
「でも、消そうとすると強くなることもある」
相談者は、目を伏せた。
「忘れたほうがいいって、言われました」
「忘れられるなら、とっくに忘れてる」
遥は静かに返す。
「“また始まるかもしれない”って考えは、
自分を守るために残ってる」
相談者の肩が、わずかに下がった。
「守ってる……んですか、これ」
「守ってる」
遥は繰り返す。
「だから、無理に消さなくていい。
ただ、今は起きてない、って事実だけを横に置く」
相談者は、少し考えたあと、首をかしげた。
「横に、ですか」
「正面から否定しない。
“考えちゃダメ”って言わない」
遥は、視線を上げて言った。
「“また始まるかもしれない”の隣に、
“今日はまだ起きてない”を置く」
相談者は、ゆっくり息を吐いた。
「……それなら、できそうです」
小さな声だったが、嘘ではなかった。
「始まってない時間を、全部安心に変えなくていい。
ただ、今この瞬間が安全かどうかだけを見る」
沈黙が落ちる。
教室の外で、風が窓を鳴らした。
相談者は立ち上がる前、ぽつりと呟いた。
「また始まるって考える自分を、嫌いにならなくていいんですね」
遥は、一度だけ頷いた。
「それは、ちゃんと生き延びた証拠だ」
扉が閉まる。
教室には、何も起きていない時間が戻る。
それでも遥は知っている。
“始まっていない”ことと、“終わったと感じられる”ことの間には、長い距離がある。
その距離を、今日も誰かが、息を詰めながら歩いている。