部屋の隅で、冷めきったマグカップが転がっている。床に広がった影は、外の光が動くたびに少しだけ形を変えた。
スマホは相変わらず沈黙している。
通知音も鳴らない。
鳴らないことに安堵して、同時に苛立つ。
天井の模様を目でなぞる。
数えるのも飽きた線が、ただそこにある。
胸の奥が、わずかに痛んだ。
それが寂しさなのか、後悔なのか、自分でも名前がつけられない。
――息をする音がやけに大きい。
耳の奥で、自分の心臓が小さく跳ねる。
部屋の空気が、夜の湿気を帯びて重くなる。
窓の外、遠くで救急車のサイレンが細く鳴り、すぐに途切れた。
その一瞬の赤い光が壁をかすめて消える。
冷蔵庫のモーター音だけが低く響く。
その音に合わせるように、遥はゆっくり呼吸を繰り返す。
吸うたびに胸がわずかに軋む。
吐くたびに、心の奥の暗い穴がほんの少しだけ広がる気がした。
スマホの黒い画面を指先でなぞる。
電源は入ったまま。
けれど、呼び出す相手の名前を浮かべることができない。
どの名前も、遠くの影のようにぼやけて消える。
窓を開けても、風は入ってこなかった。
街の匂いだけが、薄く、鼻をかすめていった。
遥は膝を抱えた。
膝に顔を埋めると、かすかな汗のにおいがする。
その温度が、ただ“生きている”証拠のようで、
それすらもどこか他人のものみたいに感じられた。