テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
その日、月椿堂は珍しく忙しかった。
夕方になると、雨を避けるように客が立て続けに入り、腕時計、カメラ、古い銀のスプーンが帳場に並ぶ。クリストルンは査定票を書きながら、モンジェの顔色を気にしていた。
昨夜から、父の咳が少し増えていた。大丈夫だと言い張る声に張りはあるのに、歩くときだけ足取りがわずかに重い。
「少し座って」
「忙しいときに座る質屋があるか」
「あるよ。今日ここに」
言っても聞かないのは知っている。モンジェは大きな体で客を送り出し、また次の品を受け取った。
最後の客が帰ったころには、外はすっかり暗くなっていた。
クリストルンが湯呑みを二つ持って戻ると、モンジェは帳場の裏で壁に手をついている。
「お父さん?」
振り向こうとした父の膝が、がくりと折れた。
湯呑みが畳に落ち、熱い茶が広がる。クリストルンは反射で駆け寄り、肩を支えた。重い。支えきれない。大きな体が、頼りないほど簡単に傾く。
「モンジェ!」
呼んでも、返事がない。
顔色がさっと青ざめていくのが分かる。
クリストルンは震える手でスマートフォンを取り出した。指が言うことを聞かない。番号を押し間違え、やり直す。息が浅い。
「救急ですか」
「父が、倒れて、息は……息はあります、でも、返事が……!」
住所を告げながら、クリストルンは父の頬を叩いた。
叩きたくなんかなかった。けれど、何かしないと置いていかれる気がした。
「お父さん、ねえ、お父さん!」
大きな体は動かない。いつも店の中を埋めるほど大きかった声が、今はどこにもない。
怖い。
その感情だけが、頭の中で暴れ回る。
「こっちを見て」
口からこぼれた。
工場で聞いた幼い子どもの言葉と同じだった。
「お父さん、こっちを見て……!」
涙で視界がにじむ。クリストルンは父の手を握った。冷たくはない。まだ温かい。その温かさが、余計に怖かった。
遠くでサイレンが鳴る。
近づいてくるまでの数十秒が、何分にも何時間にも感じられた。
扉が開き、救急隊員が入ってくる。質問されても、うまく答えられない。年齢、持病、意識消失の時間。知っているはずのことが、涙の向こうでばらばらになる。
「ご家族ですね。付き添ってください」
クリストルンはうなずく。靴もまともに履けないまま、担架の横を走った。
月椿堂の灯りが背後へ遠ざかる。
あの店はいつも帰る場所だったのに、今はただ置いていかれる場所に見えた。
救急車の中で、モンジェの指先がほんのわずかに動いた気がした。
けれど、目は閉じたままだ。
クリストルンは父の手を握りしめ、何度も同じ言葉を胸の中で繰り返す。
こっちを見て。
お願いだから、置いていかないで。
車内の白い光が揺れる中で、その祈りだけが、声にならずに震えていた。
空乃 美晴
89
雨晒しの原稿用紙
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!