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教室には誰もいなかった。掃除の時間をとっくに過ぎたその場所に、まだ遥はいた。
黒板に背を向けて、教卓の前。日下部はその視線の先に立っている。
 「なにしてんの、おまえ」
 遥は、口元にだけ笑みを浮かべた。
 「べつに。……遊んでくれんのかと思って」
 冗談のように言った。嘲るような声の抑揚だった。けど、その中には明らかに“試す”ような何かがあった。やってきたように。ずっとやってきたように。
 ゆっくり、遥は日下部に歩み寄る。肩に指先がふれる。
 ほんのそれだけで、日下部の身体がぴくりと反応した。
 「……やめろって」
 その言葉は、静かだった。怒鳴りもしない。ただ真っすぐな拒否だった。
 遥の表情が止まった。
 時間が、ほんの一瞬、切り取られたみたいに。
 「……なにを?」
 「わざと触るな。……そういうふうにすんなって言ってんだ」
 遥は、笑った。
 だけど、笑ってなんかいなかった。
 「“そういうふう”って、どういうふう?」
 「……」
 「なあ、“淫乱”とか“誘ってる”とか、“簡単に抱かせる”とか。言えば?」
 遥の声は、無感情に近かった。
 それは、突き刺すための棘じゃなかった。
 ただ、自分がそう“言われること”に慣れてしまっているだけだった。
 「……そういう目で見たこと、ないから」
 日下部の言葉が落ちる。
 遥は、笑えなかった。
 (……ほんと、だる)
 心の中で呟いたのは、苛立ちじゃなかった。なにか、もっと不確かなもの。
 “壊すつもり”で近づいた。
 どうせまた、触れて、撫でて、舐めて――そうしてくれれば安心できた。
 でも、日下部は突き放すように距離をとる。
 誰にも必要とされなかった子どもが、大人の指先に反応するようになっただけの身体。
 その価値を、一度も“拒まれたことがなかった”遥にとって、その言葉は不意打ちだった。
 (おれじゃ、ダメってこと?)
 (それとも……“本当に”見ようとしてんのかよ)
 遥は、視線を伏せた。
 嘘の笑みは、もう貼りつかなかった。