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撮影がすべて終わり、スタッフが帰ったスタジオは、驚くほど音が消えていた。
薄暗い廊下の奥で、編集室のドアだけが白く灯っている。
泉が呼ばれたのは、夜の十時半。
柳瀬からのメッセージは短かった。
──編集チェック。来られるなら来い。
命令ではない。
けれど、断るという選択肢が最初から存在しなかった。
扉を開けると、モニターの青白い光が、柳瀬の横顔を照らしていた。
椅子にもたれ、指先でゆっくりとトラックボールを転がしている。
「来たか」
それだけで、泉の背中が緊張する。
「今日の分、少し見ていくか?」
「……はい。見たいです」
柳瀬はモニターを指で示した。
その一瞬の仕草さえ、泉には“許可”のように見えた。
スロー再生が始まる。
泉の表情が、呼吸が、まぶたの揺れが、通常の三倍の速度で暴かれていく。
息をのむ。
自分の顔なのに、どこか他人みたいだ。
こんな目をしていたのか。
こんなふうに柳瀬を見ていたのか。
「……ここ」
柳瀬の低い声が落ちる。
その声が、映像より強く泉の皮膚を撫でた。
画面に映る泉は、照明を浴びて少し乱れた髪を揺らし、唇がわずかに開いている。
カメラの奥を探るような、あの視線。
「いい表情する」
柳瀬は、あくまでプロの声で言った。
けれど、その“いい”がどこを評価しているのか、泉にはもうわからない。
「……こういう顔、他のカメラでも出せる?」
柳瀬はモニターの光だけを反射させた目で、泉を横目に見た。
問いかけなのに、答えを求めていない響きだった。
「……出せるか、わかりません」
「だろうな」
すぐ返ってきた。
音ではなく、確信だけがそこにあった。
柳瀬は再生を止め、モニターのごく近くまで顔を寄せた。
泉のアップが、画面いっぱいに映る。
緊張で喉が鳴る。
「この瞬間……息が止まってる」
「え……?」
「ほら。胸が動いてない」
指先で、画面の自分をなぞるように指し示す。
まるで泉の身体に触れるような距離で。
泉は座っているだけなのに、腰の奥が痺れるように熱くなる。
「……柳瀬さん」
呼ぶ声が、自分でも驚くほどかすれていた。
「何だ?」
柳瀬は顔を上げない。
モニターの中の泉だけを見ている。
「……そんなに見ないでください」
「仕事だ」
短く切り捨てる。
なのに声は妙にやわらかい。
スロー再生が続く。
泉の目が細くなる瞬間。
喉を鳴らした瞬間。
肩が震えた瞬間。
それらすべてが、柳瀬の指先で操られている。
「……恥ずかしいです」
ようやく絞り出した言葉。
柳瀬は、その言葉にだけ顔を向けた。
「恥ずかしいなら、余計に見る価値がある」
「っ……」
「お前の“反応”が一番出るのは、こういうときだ。
撮影より、照明より……ここでのほうが露骨だぞ」
露骨。
その一言だけで、泉の呼吸が乱れた。
触れられていないのに。
むしろ、触れられないままなのに。
柳瀬は、指先だけで泉の心臓を押してくる。
再生がふっと止まる。
柳瀬が椅子を回し、泉の正面に座った。
「……顔、赤い」
「そ、そんな……」
「スローで自分を見るのがそんなに効く?
それとも――」
一拍置き、柳瀬の目が泉の唇に触れるような軌道を描く。
「俺が見るからか」
湧き上がる熱を、どこにも逃がせなかった。
泉は喉を震わせるだけで、答えられない。
柳瀬は、その沈黙の意味を当然のように理解した顔をした。
「今日は、触れない」
淡々として、残酷な宣告。
泉は息が止まった。
触れられたかった。
触れられないことが、逆に身体のどこかを締めつけた。
「……わかるか? 泉」
「……な、にが……」
「お前、触れられないほうが反応いい」
泉の全身に、ぞくりと寒気に似た熱が走る。
「だから、しばらく“触れない日”を作る。
そのほうが、撮れる」
“そのほうが、撮れる”。
仕事の理由で言われているのに、胸の奥はひどく甘く痛む。
「帰れ。
あんまり長く見てると……俺が約束破りたくなる」
低い声が、最後だけ素の熱を滲ませた。
泉は立ち上がれなかった。
ただ、柳瀬の宣告に身体の奥を支配されながら、ゆっくり息を吸い込む。
――触れられていないのに、触れられた日の何倍も苦しい。
そしてそれが、快感だと気づいてしまう。