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夜のスタジオは、片付けの途中で放置されたまま、静かに息をひそめていた。
ケーブルが床を這い、使われなかった照明だけが薄く残光を落としている。
泉はその中央に立っていた。
もう“仕事の顔”を作る必要はないはずなのに、体だけが無意識に緊張している。
——近い。
柳瀬が数歩先に立っているだけなのに、距離を意識した瞬間、身体が反応する。
触れられていない。
だが、触れた記憶が消えない。
首筋に残る、指の感触。
呼吸の間に混じった体温。
それらがまだ身体の奥に沈んだまま、強く主張していた。
泉は視線を逸らしたまま、静かに切り出す。
「……俺」
喉が詰まる。
一度息を吸わないと、言葉が出なかった。
「俺、あなたに利用されてるだけですよね」
ようやく言えたその言葉は、思ったより平坦だった。
怒りでも、泣き言でもない。
事実確認に近い声音。
柳瀬は即座に答えた。
「その通りだ」
間がない。
否定も、言い淀みもない。
泉の胸の奥がひりつく。
分かっていたはずなのに、はっきり言われると、足元が揺らいだ。
柳瀬は一歩近づく。
触れない。けれど、視線が逃げ場を奪う。
「……でも」
続く声は低く、落ち着いていた。
「お前も俺を使ってるだろ」
泉の指先が微かに震えた。
否定しようとして、できない。
自分が“見られること”で保たれていたこと。
柳瀬の視線があるから、感情がほどけ、壊れ、また形を持ってしまうこと。
その全部が、“利用”と呼ばれても否定できなかった。
「……それは」
「利用だ」
柳瀬は淡々と重ねる。
「才能も、反応も、期待も。お互い、都合のいい部分を使ってる」
泉は唇を噛んだ。
冷たい言葉のはずなのに、身体はまだ逃げようとしない。
「嫌なら、終わりにできる」
その一言が、決定打だった。
終わり。
この距離も、視線も、触れられた記憶も、全部ここで断ち切るという選択。
頭では理解できるのに、
想像した途端、胸が強く締めつけられる。
「——嫌です」
思ったよりも、早く答えが出た。
柳瀬の視線がわずかに鋭くなる。
それは責める目ではなく、見極める目だった。
「……理由は」
「分かりません」
正直に言うしかなかった。
「でも、終わるって思った瞬間……息が、できなくなった」
一拍の沈黙。
柳瀬は目を伏せ、また泉を見る。
「なら、覚悟しろ」
その声は静かで、逃げ道を作らない。
「これは対等じゃない。お前のほうが傷つく」
「……それでも」
言葉より前に、身体の方が知っていた。
もう引き返せない場所まで来ていることを。
柳瀬はそれ以上、近づかなかった。
触れもしない。
それなのに、泉の心臓は早鐘を打ち、
指先に、あの夜の体温が蘇る。
「今日は帰れ」
「……はい」
背を向けるのが、正解だと分かっている。
それでも一瞬、泉は動けなかった。
柳瀬は背中越しに言う。
「依存は、始まったばかりだ」
その言葉が、救いなのか呪いなのか、分からないまま。
泉はようやく歩き出す。
スタジオの出口へ向かう間、
ずっと背中に、見られている感覚を感じながら。
——終わらせなかったのは、柳瀬じゃない。
選んだのは、自分だ。
その事実だけが、やけに重く胸に残っていた。