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放課後の美術室には、薄い光が残っていた。
西日に照らされた床の上で、長く伸びた机の影だけが静かに揺れている。教室の片隅、誰も使わなくなったイーゼルの前に、遥は座り込むように立っていた。
描こうと思ったわけではなかった。
ただ、教室に残っていることが“怒られない時間”だったから、ここにいるだけだ。
紙の上には、四角い枠がある。窓だ。
そう決めたのは、描き始めてしばらくしてからだった。最初はただ、線を引きたかった。境界が欲しかった。外と内を分ける、はっきりした線を。
家にも学校にも、それはなかったから。
遥は色を置いた。
赤、青、緑。意味のない順に。
空が赤く、山が緑で、月が薄い桃色になった。色彩の理屈は知らない。教わる前に、教室にいることの方が痛かったから、授業の言葉はいつも頭をすり抜けていった。
――外の世界は、きれいに見えなかった。
なのに、色だけは強烈だった。
暴力の音と、からかわれる声と、名前を呼ぶ舌の湿った響き。その全部が、色になって目の前に広がっていた。
遥は筆を止める。
窓の外の色は、どうしても現実の風景にはならなかった。どこにも存在しないのに、なぜか“知っている”色ばかりだ。
「……これでいい」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、ここまで描けば十分だった。これ以上描けば、たぶん自分の中の何かが漏れ出してしまう。そんな気がした。
最後に、窓枠だけグレーで塗る。
境界線。
外の鮮やかさと、内側の静けさをつなぎ止めるための色だ。
――本当は、窓なんて見たことがない。
外を眺められるような自由な場所を、遥は知らなかった。家の窓は鍵がかかっていたし、学校の窓辺に立てば“誰が見ているかわからない”気配が常につきまとった。
だからこの窓は、現実ではなく願望でもなく、
“遥の中にだけ存在する境界”だ。
がらん、とドアが開く音がした。
同じクラスの誰かが入ってきたのかもしれない。声は聞き取れない。遥は反応をやめた。
驚くと、弱さの証拠になる。
怯えると、もっと深く踏み込まれる。
だから、動かない。
足音が近づいてきて、絵を覗き込む気配がした。
沈黙が落ちる。
「……これ、何の絵?」
遥は振り返らない。
質問に答える理由が思いつかなかった。
代わりに、筆を置く音だけが小さく響いた。
その音が、遥にとっての“返事”だった。
絵を見た相手はそれ以上何も言わず、しばらくして離れていった。足音が遠のく。美術室の扉が閉まる。
静寂だけが戻る。
遥はゆっくりと立ち上がり、描いた絵を見つめた。
外側は鮮やかで、内側は何もない。
その“何もなさ”が、どうしようもなく自分に似ていた。
窓枠のグレーを指でなぞる。
触れても、絵は何も言わない。
痛みも、声も返ってこない。
――こんな世界だったらよかった。
色が嘘のまま、触れられないまま、静かに済む世界なら。
遥は絵を机の上に置き、そのまま教室を出た。
扉の向こうには、また同じ色のない廊下が続いている。夕暮れの光が差す窓を横目に、遥は視線を落とした。
窓の向こうには、色がある。
それを見られる人間と、見られない人間がいる。
遥は歩きながら思った。
自分はたぶん、後者なのだ――と。