テラーノベル
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――“いかせて”。
発した記憶はない。だが、録音され、切り取りされ、編集されていた。
部屋の鍵は自分しか持っていないはずだった。
だが兄たちは、昔から、そういう境界線を持ち込んだことは一度もない。
扉は開けられ、身体は撮られ、声は記録される。
眠っている間に交わされた言葉すら、証拠として切り抜かれる。
そして今、それは“大学の壁”にも書かれていた。
「この声、マジでやばい。絶対感じてるでしょw」
「兄弟に犯されて悦ぶタイプって、本当にいるんだな」
「こいつ、次は自分で撮らせてって頼むんじゃね?」
――壁は、いつから鏡になったんだろう。
兄たちは、もう加害すら楽しんでいない。
夜。スマートフォンが震える。着信名は「長男」。
応じると、スピーカーの向こうに笑い声が三つ。聞き慣れた声。記憶の底で何度も響いた音。
「おまえさ、いかせてって言ったときの顔、自分で見たことある?」
声は穏やかだった。
だがその奥にあるものは、“兄”ではなく、飼い主の視線だった。
「教授にも送ったらしいよ、誰かが。あの“音”だけ。面白いよな、おまえの人生って」
「さーて、次はどうする? 今度は、大学のトイレとか、どう?」
何も言えなかった。
代わりに、スマホの画面が汗で濡れる音だけが聞こえていた。
人は、境界線を壊されると黙る。
講義中、横の席に置かれたUSB。差し込むと、また“音”。
“いかせて”。喘ぎ声。兄の名前を呼ぶ声。
それは“実際には発していない”ものも混ざっていた。合成音声。AI。加工。
事実と虚構の区別は、被害者にとって無意味だ。
大学では、すでにそれが「事実」として機能していた。
誰もが知っている。誰もが笑っている。
教授も、ゼミの仲間も、誰一人として触れない。
だが、誰もが見ている。“その目”で見ている。
「そういうの、好きなんでしょ」
「もう、やられてるとこ見せてくれたほうがマシ」
「兄弟モノって、意外とエモいよね」
言葉は軽い。だが刃物だった。
その中で、悠翔はただ心の中で何かを殺し続けていた。
夜。自室。
兄たちからのファイル名:
「yuto_final_cut.mp4」
再生できなかった。できないことが、唯一の防衛だった。
けれどファイル名だけで、“次”がもう撮られていることを理解する。
もはや身体が壊れるよりも、“知らぬ間に撮られ、晒されること”のほうが恐ろしかった。
コメント
1件
もう、本当に胸が締め付けられる回でした……。本人が発していない声が切り取られて「事実」として流通してしまう怖さ、そして何より、兄たちがもはや加害すら楽しんでいないという冷めきった視線が、読んでいてとても苦しかったです。USBや合成音声、壁に書かれた文字――どれもこれも、悠翔の境界線が少しずつ、でも確実に侵食されていく感覚がリアルでした。ファイル名「final_cut」にあえて触れられないままでいる描写に、彼の必死の防衛線を感じて切なくなりました…。続きが本当に気になります。
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