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相談室に来た相談者は、椅子に座ってもしばらく黙っていた。
視線は床と机の境目を行き来している。
「間違ってないはずなんだ」
ぽつりと、独り言みたいに言った。
遥は促さない。待った。
「ルールは守ってる。
提出物も出してるし、遅刻もしない。
変なことも言わないし、空気も読む」
相談者は淡々と並べた。
「大人から見たら、たぶん“問題ない”」
少し間が空く。
「でも、楽しくない」
言い切ったあと、相談者は眉をひそめた。
「不満があるわけじゃない。
不幸でもない。
ただ……何も残らない感じがする」
遥は静かに視線を上げた。
「“正しい”ってさ、便利だよな」
相談者は顔を上げる。
「否定されにくいし、怒られにくい。
でも、“正しい”だけだと、感情は置いていかれる」
相談者は苦笑した。
「それ。
置いていかれてる感じ」
学校でも、家でも、
選択を間違えないようにしてきた。
波風を立てない。
期待を裏切らない。
余計なことを言わない。
「気づいたら、“好き”とか“やりたい”が後回しになってた」
相談者は言う。
「それでもさ、
ちゃんとやってきたんだから、いつか楽しくなると思ってた」
遥は首を横に振らなかった。
「楽しくなる保証は、どこにもない」
相談者は一瞬、戸惑った表情をした。
「……え?」
「正しさは、感情を連れてきてくれない」
遥は続けた。
「感情は、ちゃんと迎えに行かないと、戻ってこない」
相談者は唇を噛んだ。
「でも、間違えるの怖い」
「当然だ」
「間違えたら、今まで積み上げたものが壊れそうで」
遥は少し間を置いてから言った。
「壊れるのは、“正しさ”のほうかもしれない」
相談者は目を伏せた。
「正しい選択ばっかしてたら、
“自分で選んだ感覚”が薄くなる」
遥の声は低い。
「それが続くと、何をしても楽しくなくなる」
「じゃあ、どうすればいい?」
焦りが混じった声だった。
「全部ひっくり返せってこと?」
「違う」
遥は即座に否定した。
「正しさを捨てろ、じゃない。
正しさの横に、感情を置けって話だ」
相談者は考え込む。
「感情って、そんな簡単に分かる?」
「分からないことのほうが多い」
遥は正直に言った。
「だから、小さいのでいい」
「小さい?」
「楽しい“気がする”
嫌じゃない“気がする”
それくらいでいい」
相談者はゆっくり息を吐いた。
「今まで、ちゃんと理由がないと選んじゃいけないと思ってた」
「理由がなくても、感情は動く」
遥は言った。
「理由がないから、嘘じゃないこともある」
相談者は少しだけ笑った。
「正しいことを選んでるのに楽しくないって、贅沢だと思ってた」
「贅沢じゃない」
遥は静かに否定した。
「それは、疲れてるサインだ」
相談者の肩が、ほんの少し下がった。
「……正しさに、疲れてたのか」
「気づけただけでも、十分だ」
相談者は立ち上がる前、もう一度言った。
「間違ってないのに苦しいって、言ってよかった」
ドアが閉まる。
遥は一人、椅子に座ったまま考える。
正しい選択は、身を守る。
でも、生きてる感覚までは保証しない。
感情は、いつも後回しにされる。
それでも、消えずに残る。
残っているから、苦しくなる。
――正しさに疲れた人は、間違ってない。
ただ、自分の声を置き去りにしただけだ。