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その日は、特別なことは何もなかった。


授業が終わって、部活の声が廊下に残って、日下部はいつも通り鞄を肩に掛けて校舎を出た。


ただ、妙に頭が重かった。

理由は分かっている。

数日前、蓮司に言われたあの一言。


――ちゃんと、間に合った?


意味はない。

そう思おうとすれば、思える言葉だった。

でも、消えなかった。


夜、自室で机に向かっていても、

風呂に入っても、

その声だけが、妙に鮮明だった。


(なんで、俺はあの日、屋上に行ったんだ)


きっかけを、思い出そうとする。


あの日は、確か――


誰かに呼ばれたわけじゃない。

遥から連絡が来たわけでもない。


ただ、スマホが一度、震えた。


無意識に取り出して、

画面を見て、

「……ああ」と小さく声を出した。


そこまで思い出して、

日下部の手が止まる。


(……待て)


胸の奥が、嫌な感じで冷える。


机の引き出しを開け、スマホを取り出す。

履歴を辿る。

日付。

時間。


あった。


蓮司からの、短いメッセージ。


「今日、屋上使える?」


それだけ。

命令でもない。

緊急でもない。

どうでもいい、雑談の一行。


その日の自分は、

「知らない」と返して、

それで終わったはずだった。


でも――


(そのあと、俺……)


記憶が、ずれている。


返事をしたあと、

なぜか立ち上がって、

なぜか階段の方に向かっていた。


理由はない。

用事もない。


ただ、


(確認しとくか)


そう思った。


それだけ。

屋上に向かう途中、

風が強かったこと。

扉が重かったこと。

鍵が開いていたこと。

全部、鮮明だ。


そして――

柵の向こうに、遥がいた。


今まで何度も反芻してきた場面。


でも、今は違う角度で刺さる。


(……“屋上使える?”)

(あれ、誰のための確認だった)


喉が、ひくりと鳴る。


蓮司は、

「行け」とは言っていない。

でも、

「方向」だけは、示していた。


(もし、俺が行ってなかったら)


考えが、止まる。


あの日、

数分、遅れていたら。

あるいは、

メッセージを気に留めなかったら。


胸の奥が、じわじわと痛む。


(偶然……じゃない、のか)


言葉にした瞬間、

頭の中で、あの飄々とした声が重なる。


――ちゃんと、間に合った?


問いじゃない。

評価でもない。


結果確認だ。


(……蓮司、お前)


初めて、はっきりと浮かぶ疑問。


(何を、させたかった)


助けさせたのか。

見せたかったのか。

巻き込みたかったのか。


答えは、まだ出ない。


ただ一つ、分かることがある。

自分はもう、

「無関係」ではいられない。


遥を止めた手の感触が、

急に重く感じられる。


救った。

確かに、救った。


でも――

その場に立たされた理由を、

自分で選んだわけじゃない。


(……それでも)


日下部は、スマホを伏せた。


(支える)

(それだけは、やめない)


たとえ、

きっかけが歪んでいたとしても。


たとえ、

誰かの掌の上だったとしても。


遥が生きている現実だけは、

今は、ここにある。


その責任から、

もう目を逸らせない。

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