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放課後の校舎は、昼間よりも静かだった。
誰も使っていないはずの相談室の前で、相談者はしばらく立ち尽くしていた。ノックをする理由が、最後まで見つからなかったからだ。
入ってもいいのか、今さら来る意味があるのか。
そんなことを考えているうちに、時間だけが過ぎていった。
中から、椅子がきしむ音がした。
「……開いてるよ」
遥の声は低く、淡々としていた。呼び寄せるでも、急かすでもない。ただ事実を告げるだけの声だった。
相談者はゆっくりと扉を開けた。
部屋は狭く、飾り気もない。机と椅子が二つ。窓から入る夕方の光が、床に細く伸びている。
相談者は椅子に座ったまま、しばらく黙っていた。
遥も何も言わない。ペンを持つことも、メモを取ることもせず、ただ向かいに座っている。
「……最近」
ようやく、相談者が口を開いた。
「前みたいに、頑張れなくなった」
それだけ言って、言葉が途切れた。
続けなければいけない気がして、でも何をどう説明すればいいのか分からない。
「学校、行ってるし。授業も出てる。サボってるわけじゃない」
「でも……」
相談者は視線を落とした。
「前は、もっと耐えてた気がする。ちゃんと我慢して、ちゃんとやってた」
遥は相槌を打たない。ただ、視線を外さずに聞いている。
「今は……無理って思う回数が増えた。休みたいとか、もう関わりたくないとか。
そう思うたびに、逃げてる気がする」
その言葉は、吐き出すというより、削り出すようだった。
相談者の頭には、何度も同じ光景がよぎる。
何もされなかった日のほうが、かえって落ち着かなかったこと。
次はいつ始まるのかと、笑っている相手の声をずっと警戒していた時間。
「いじめられてたって言うとさ
“じゃあ今は?”って聞かれる」
相談者は苦笑した。
「今も続いてるって言うと、大げさって言われるし
何もされてない日があると、“もう大丈夫じゃん”って」
遥は、ほんの少しだけ眉を動かした。それでも言葉は挟まない。
「だから、ちゃんとしなきゃって思ってた。
普通の顔して、前と同じように頑張らなきゃって」
相談者の声が、わずかに震えた。
「でも、できなくなった。
朝、体が動かない日がある。教室に入るだけで、頭が真っ白になる日もある」
それを言葉にした瞬間、胸の奥がざわついた。
“甘え”“逃げ”――そんな言葉が、勝手に浮かぶ。
「誰にも言われてないのにさ。
自分で、自分に言ってる」
遥は少し間を置いてから、口を開いた。
「……頑張ってたって、自分で思える?」
相談者は、即答できなかった。
頑張っていたのか。ただ耐えていただけじゃないのか。そう思うと、肯定するのが怖かった。
「……分かんない。
頑張ってたって言うと、今の自分が余計にダメに見える」
遥は視線を落とし、窓の外を一度見た。
「動けなくなった理由は、消えてないだろ」
それは断定ではなく、確認に近い言い方だった。
「終わったことにされても、体は覚えてる。 怖くなくなったわけじゃないのに、前と同じ速度で進めると思われる」
相談者は、はっとして顔を上げた。
「……それ。
それなんだと思う」
喉の奥が詰まり、続く言葉がすぐに出てこなかった。
「逃げたわけじゃないのに。
動けなくなっただけなのに」
遥は、相談者をまっすぐ見た。
「頑張れなくなった自分を責めてる間は、まだ立ち止まってるだけだ。
投げ出してたら、ここには来てない」
その言葉は、慰めではなかった。
でも、否定でもなかった。
相談者は、深く息を吐いた。
責める声が、少しだけ遠のいた気がした。
外では、誰かの笑い声が響いている。
世界は何も変わっていない。
それでも、相談者は椅子から立ち上がるとき、ほんのわずかに背中が軽くなっているのを感じた。
逃げたわけじゃない。
そう言い切れなくても、少なくとも――間違ってはいなかった。