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木津は、少しだけ言葉を選んでから話し始めた。
「訂正するな。
久我が“自分で判断して動いた”事件は、ひとつしかない」
真琴は黙って聞いている。
訂正という言葉に、違和感はなかった。
この人は、事実を守るためなら、いくらでも言い直す。
「黒瀬恒一の件だ」
玲が視線を上げる。
「連続失踪事件?」
「そうだ」
木津は頷いた。
「それ以前の久我は、
決して前に出るタイプじゃなかった。
判断は常に“組織の中”で完結させる人間だ」
冷静。理性的。
感情を表に出さない。
正義を語らない。
――扱いやすい。
「黒瀬の事件だけが例外だった」
木津は、そこで一度言葉を切った。
「黒瀬は、最初から妙だった」
「妙?」
「否認しない。
でも、語らない」
真琴の脳裏に、資料の一文が浮かぶ。
供述調書。
短く、乾いた文体。
「動機がない?」
「ない。
というより――出てこない」
木津は続ける。
「怒りも、正義も、自己弁護も。
“やった”という事実だけを受け入れていた」
「……」
「久我は、そこに引っかかった」
玲が小さく息を吸う。
「それで、踏み込んだ?」
「ああ」
木津の声は低い。
「裏を取った。
失踪者の経歴を洗い直した」
だが。
「証拠にはならなかった」
木津は、淡々と告げる。
「“整いすぎていた”」
資料。証言。時系列。
すべてが、過不足なく並んでいた。
「整ってるのは、安心材料だ。
疑うほうが、面倒になる」
真琴は、父の箱の中身を思い出す。
既に開けている。
中にあった断片的な手帳。
走り書きの矢印。
そして――途中で止まった調査。
「久我は、どうしたの?」
木津は、少しだけ視線を逸らした。
「最後の一歩を踏まなかった」
黒瀬は有罪。
事件は終結。
久我は昇進。
「……それで終わり?」
「終わりだ」
だが、その“終わり”が
誰にとっての終わりだったのかは、語られない。
真琴が言う。
「踏み込んだ人は、他にいる」
木津は、否定しなかった。
「ああ」
その名前は出さない。
出さなくても、通じる。
「久我が踏み込まなかった場所に、
別の人間が踏み込んだ」
そして――
「死んだ」
事故か。
自殺か。
あるいは、どちらでもないか。
「黒瀬は、そのことを知ってた?」
木津は、しばらく沈黙したあと、答えた。
「少なくとも、
“誰が壊れるか”は分かってた」
真琴は、拳を握らない。
怒りも、叫びもない。
ただ、理解する。
久我は踏み込まなかった。
黒瀬は語らなかった。
父は踏み込んで、戻らなかった。
均衡は、そこで成立していた。
そして今――
その均衡の上に、真琴は立っている。