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映画館のロビー。ポップコーンの甘い匂いと人いきれに包まれながら、遥はチケットを握りしめていた。隣には日下部。休日の人混みの中でも、彼の存在だけが不思議と落ち着かせてくれる。
「始まるまで少しあるな。ドリンク買うか?」
「……ああ」
遥は小さくうなずき、無意識に日下部の袖をつまんだ。
そのとき――。
「……あれ? おい、見ろよ」
耳慣れた声が背後から降ってきた。遥の身体が硬直する。振り向かなくてもわかる。中学の頃、自分を笑いものにし、傷つけ続けた連中だ。
「マジかよ、遥じゃん。こんなとこで何してんだよ?」
「彼女? ……って、男か。ははっ」
笑い声が耳を刺す。喉が焼けつき、息が詰まる。心臓が荒ぶる音が耳の奥に響いた。
日下部が一歩前に出て、遥の前に立った。低い声で、「……用か?」と短く放つ。
その視線は冷ややかで、軽いからかいの空気を一瞬で凍らせた。
「な、なんだよ……別に。ただ懐かしくて声かけただけだって」
引き笑いをしながら、いじめっ子たちは遠ざかっていく。
残された遥は、握りしめた拳を震わせていた。ポップコーンの香りが一瞬で吐き気に変わり、視界がぐにゃりと歪む。
「……遥」
日下部の声が届く。
遥は唇を噛み、目を伏せた。
「……なんで、逃げなかったんだよ」
「逃げる理由、ねえだろ」
日下部は淡々と答える。
「おまえ……わかってねえ……あいつらがどんなことしたか……」
声が掠れる。今にも崩れそうな吐息が混じる。
日下部は一度も否定せず、ただ横に立っていた。手を差し出すわけでも、慰めの言葉を投げるわけでもなく、遥が耐え切れるまで黙って隣に在った。
やがて館内に入ると、暗闇に包まれる。スクリーンの光が遥の横顔を照らし、強ばった表情のまま、彼は小さく日下部の袖を握った。
「……隣にいろよ」
それは命令にも、懇願にも似ていた。
日下部は言葉を返さず、ただうなずく。
手を伸ばし、握られた袖ごと遥の手を包んだ。暗闇の中、その温度だけが確かに残った。