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休日の朝、駅前。人の流れに紛れて立っている遥の姿を見つけ、日下部は軽く手を挙げた。
遥は小さくうなずき、視線を逸らす。いつも通りの反応――いや、どこかぎこちなさが混ざっていた。
「……行くか」
日下部が淡々と声をかける。
「……ああ」
遥は短く返事をするが、足取りは少し重い。
歩き出す二人。行き先は映画館と小さなカフェ。日下部が事前に調べた、ごく普通のデートのプランだった。
けれど、遥の胸の奥では波が立っていた。
「普通」なんて、今まで無縁だった。
家では暴力と拒絶、学校では嘲笑と孤立、蓮司には支配と搾取。
「普通に楽しむ」という言葉そのものが、冗談のように思えた。
横を歩く日下部は、いつもより言葉が少なかった。ただ時折、信号のタイミングで肩を軽く押したり、人混みの中で歩幅を合わせたり。そんな些細な仕草だけが残る。
――触れてこない。
遥の心がざわつく。
試し行動を重ねても、怒らず抱かず、ただ「いる」だけの日下部。
それが優しさだと頭ではわかっても、心は受け入れられない。
「おれのこと、本当に好きなのか?」
その疑いが、また胸を焼く。
映画館の暗闇。スクリーンの光が遥の横顔を照らす。
日下部は一切触れてこない。手も、肩も。
普通のカップルのような仕草すらない。
だからこそ、遥は落ち着かない。
――触れられる方が楽なのに。
――拒絶される方が、まだ耐えられるのに。
映画が終わり、カフェで向かい合う。
日下部は穏やかにメニューを差し出すが、遥はページをめくる指先を止められなかった。
「……なあ」
やっと声を出す。
「なんで……なんもしてこないんだよ」
その声は責めでも苛立ちでもなく、かすれた困惑だった。
日下部は少し黙って、遥の目を見据えた。
「……おまえに“普通”を渡したいんだよ」
短い言葉。
だが遥には重すぎた。
「普通」――それは、遥が最も遠ざけられてきたもの。
その手のひらに渡されかけて、震える。
「……やめろよ。おれには似合わねえ」
小さな声で吐き捨てる。
しかし心の奥で、その言葉が揺れた。
似合わないはずの「普通」を、もしも欲してしまったら――。
遥は気づかぬうちに、足をすくわれそうになっていた。