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「……夜はまだ終わってないよ、遥」
颯馬は“お兄ちゃん”とは呼ばない。
ただ、名前を呼ぶ声音だけが妙に子どもっぽくて、その分だけ悪意が濃かった。
遥の背筋に、痛みとは別の緊張が走る。
この家で“まだ終わらない”と言われたとき、それは――
次が一番痛いという意味だった。
晃司が棒を床に「コツン」と落とす。
怜央菜がベルトを持ったまま顎を上げる。
沙耶香が無表情にタオルを持ってくる。
タオル――血や汗で床が汚れるのを嫌うためのもの。
それだけで、遥は自分の夜がどこまで続くか悟った。
晃司が言う。
「立て」
遥の脚は震えていたが、拒否という選択肢は生まれなかった。
立ち上がると同時、腹に蹴りが入る。
折れたように体が折れた。
「まだ声が出るだろ」
怜央菜が笑う。
その笑みは甘く、内容は冷たい。
「“日下部を忘れます”を、今度は十回ね」
遥は息を整え、歯を食いしばりながら言った。
「……忘れる。
俺は……忘れる。
日下部のこと、もう――」
ベルトが背に叩きつけられる。
「遅いの。
テンポを合わせなさいって言ってるのよ」
再び痛みが走る。
皮膚がちぎれたような感覚。
呼吸が一瞬止まる。
颯馬が横からのぞき込む。
「ねえ、遥。
なんで“外の人”の名前を言うときだけ、声が震えるの?」
遥は答えない。
答えれば、震えが本物になる。
沙耶香がタオルを床に静かに敷きながら言った。
「泣くなら、そこで泣けば?」
挑発でも同情でもない。
ただの“観察”。
晃司が遥の肩を押して、強制的にタオルの上に座らせる。
「正座。手は後ろ」
遥は従った。
膝に体重がかかるたび、昼間の打撲がうずく。
背中の痛みが呼吸を邪魔する。
怜央菜はゆっくりと歩きながら、規則のように読み上げた。
「――家のルール、確認するわね」
ベルトの金具がカチ、と鳴る。
「一、外の人を信用しない。
二、家族の言うことが絶対。
三、“助けられた”と錯覚しない。
四、迷惑をかけたら、必ず償う。
五、誰にも頼らない。
六、泣きたい時は――家族の前で泣け」
最後のルールだけ、異様に静かだった。
怜央菜は遥の顎を指先で少し持ち上げた。
「さあ、どれを破った?」
遥の喉が震える。
言葉が出るまでの沈黙が、すでに“罪”とみなされる。
「……全部……」
「そうね。全部ね」
次の瞬間、棒が背中に叩き落とされる。
倒れそうになる体を、晃司が無造作に支える。
逃がさないためだけに。
颯馬がもう一度、淡々と言う。
「もっとだよ。
まだ終わらせられないよ、遥」
ベルトと棒の音が交互に響く。
頬、腹、背、肩。
規則正しい“教育”のように続く。
遥は、叫び声を一度もあげなかった。
声を出したら“弱さの証拠”になる。
この家では、それがまた罰になる。
だから噛み締め、息だけで耐えた。
怜央菜がベルトを下ろし、颯馬が息を吸うのと同時、晃司が最後に一発、腹へ拳を落とした。
身体が折れ、吐き気が込み上げる。
床に手をついて耐えると、怜央菜がようやく言った。
「――はい。今ので終わり」
終わり、の言い方が優しい。
沙耶香がタオルを回収しながら、冷たく言う。
「汚さないでね。面倒だから」
遥は返事もできず、ただ荒い呼吸を繰り返した。
颯馬が最後に、囁くように言う。
「なあ、忘れたよな?」
遥は小さく、かすれる声で答えた。
「……忘れた」
颯馬は満足そうに笑った。
「じゃあ寝ていいよ。
ほんとに終わりだから」
“終わり”と言われた瞬間、遥の体から力が抜けた。
二階へ上がる階段すら、自分の脚では登れず、手すりに頼ってほとんど引きずるようにして部屋へ向かった。
その夜、遥は眠れなかった。
眠れば全部が痛みになって襲ってくるのを知っていたから。
ただ暗闇の中で呼吸だけを整えながら、
“明日の自分はどう立つのか” を考えていた。