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依頼人への報告は、午後の早い時間に行われた。応接室の空気は静かで、時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
五十代後半の女性は、背筋を伸ばして椅子に座り、真琴の話を待っていた。
「調査の結果ですが」
真琴は、資料を一枚ずつ置きながら、丁寧に説明を始める。
「裁判記録は正式なもので、改ざんや欠落は確認されませんでした。事件自体も、記録上は確かに存在しています」
女性は、小さく頷く。
「ただし」
玲が続けた。
「当時の報道記録が、ほぼ残っていません」
「新聞社、図書館、データベース、いずれもです」
澪が補足する。
燈が腕を組んだまま言う。
「意図的に消された証拠はない。でも、“残らなかった”理由はいくつか考えられる」
真琴が視線を向ける。
「例えば、被害者側が報道を望まなかった可能性。あるいは、同時期に別の大きな事件があり、扱いが極端に小さくなった」
「どれも、決定打には欠けます」
玲が言葉を締めた。
女性は、しばらく黙っていた。
指先を組み直し、ゆっくりと息を吐く。
「……つまり。事件は、あった。でも、世間には残らなかった」
「そういう結論になります」
真琴は、はっきりと答えた。
女性は、視線を落とす。
「それでも……」
言葉を探すように間を置く。
「私の記憶が、おかしいわけじゃなかった」
その一言に、部屋の空気が少し緩んだ。
澪は、その表情を見て、胸の奥がわずかに動くのを感じた。
依頼人が求めていたのは、犯人でも、責任の所在でもない。
自分の記憶が、現実から切り離されていないという確認。
真琴が言う。
「今回の調査で分かったのは、記録と記憶が食い違っていた理由です。どちらかが間違っていたわけではありません」
女性は、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。……それだけで、十分です」
依頼は、そこで終わった。
女性が帰ったあと、応接室にはいつもの五人が残った。
「後味は、悪くないな」
燈が言う。
「依頼としては、きれいに終わった」
玲も頷く。
澪は、ファイルを閉じながら言った。
「“なかったこと”にされてたわけじゃないって分かったし」
真琴は、小さく息を吐いた。
「それが分かれば、前に進める人もいる」
事務室の方で、紙を揃える音がした。
伊藤だった。
資料をまとめ、ファイルに収めている。
いつもと同じ手順。
いつもと同じ速さ。
澪は、ふと声をかける。
「伊藤さん、この事件、どう思う?」
伊藤は、手を止めずに答えた。
「裁判は成立してる。判決も妥当。記録としては、問題ない」
「……それだけ?」
澪の問いに、伊藤は少しだけ考えた。
「記録ってのは、残すために整えられる。 残らなかった部分があっても、不思議じゃない」
「でも、揃いすぎてた」
澪は言った。
伊藤は、ようやく顔を上げる。
「揃ってる方が、後から困らない。混乱は、できるだけ減らした方がいい」
正論だった。
燈が肩をすくめる。
「仕事人間だな」
伊藤は、気にした様子もなくファイルを棚に戻す。
「これで、この件は終わりだ」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
事件は解決した。
依頼も完了した。
探偵社は、今日も通常運転だ。
澪だけが、最後に一度、棚に並んだファイルを見た。
きれいに揃っている。
過不足がない。
――終わった。
確かに、終わった。
けれど、
澪の中で、何かだけが、まだ静かに残っていた。
それが何なのかは、
まだ言葉にしない。
ただ、この事件は、
終わったはずなのに、どこかに続いている。
そう感じただけだった。