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午後の授業が始まる直前だった。
教室の空気が、ゆっくりと一方向に傾く。
誰かが、わざとらしく椅子を引いた。
「日下部、これ」
呼ばれた声は軽い。
からかう調子ですらない。
“当然の流れ”みたいな口調。
日下部は、反射的に立ち止まる。
差し出されたスマホの画面は伏せられていて、それだけで、何かを悟るには十分だった。
「……何」
「見てないの? もう回ってるけど」
周囲が、静かになる。
静かだけど、逃げ場はない。
日下部は、一瞬だけ遥を見る。
遥は、見返さない。
机の上の一点を、ただ見つめている。
――見ないでくれ。
その願いが、どちらのものなのか、分からなくなる。
「ほら」
画面が、起こされる。
再生ボタンに、指がかかる。
日下部は、音を聞く前に、顔を背けた。
でも、背けたという事実が、もう遅い。
「音、消す?」
「いや、意味なくね?」
小さな笑い。
誰も、遥の方は見ない。
見なくても、“反応”が起きると分かっているから。
日下部は、耳を塞がなかった。
塞げなかった。
何秒か。
それだけで十分だった。
彼の喉が、目に見えて動く。
視線が泳ぐ。
そして、気づいてしまった顔になる。
――ああ、これか。
遥は、その変化を、横目で見てしまう。
(やめて)
自分に向けた言葉なのか、
日下部に向けた言葉なのか、分からない。
「……マジで?」
誰かが、楽しそうに言う。
「思ったより――」
言葉の続きを、別の笑いが遮る。
遥の胸が、きゅっと縮む。
今、教室で起きているのは、
暴力の共有だ。
日下部が“知った”という事実を、
遥に、見せつけるための時間。
日下部は、もう一度、遥を見る。
今度は、逸らせない。
目が合う。
ほんの一瞬。
でも、遥には、それが永遠みたいに感じられた。
そこにあったのは、
同情でも、怒りでもない。
理解してしまった人間の目だった。
(見られた)
映像じゃない。
音声でもない。
――“そういうものとして理解された”。
遥の中で、何かが、静かに折れる。
日下部は、何も言わない。
言えない。
それが、クラスにとっての正解だと、
分かってしまったから。
チャイムが鳴る。
誰も、席に戻るのを急がない。
この時間が、
遥にとって一番きついと、
全員が知っている。
遥は、俯いたまま、動かない。
――まだ、終わらない。
これは、“共有された”だけだ。
これから先、
何度でも、
思い出させるために使われる。
その中心に、
日下部の沈黙が、置かれていた。