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放課後の相談室は、冬の夕方の匂いがしていた。廊下のざわめきが遠ざかり、最後のチャイムの余韻だけが、しんとした空気に溶けていく。
その静けさの中で、扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのは、制服の胸元をぎゅっと握りしめるようにした生徒だった。目は伏せられ、靴音も極端に小さい。
遥は視線だけを上げて、その生徒がどこに座りたいか判断するのを待った。
生徒は迷った末、机の真正面ではなく、少しずらした横の椅子に腰を下ろした。距離を測るように座るその様子に、遥は何も言わず、机の端のノートを閉じた。
「……相談、いいですか」
その声は、まるで壊れる直前のガラスみたいに薄かった。
遥は軽くうなずく。急かさず、説明も求めない。ただ、目をそらさずに待つ。
「“幸せになりたい”って……思うと、怖くなるんです」
ようやく絞り出した言葉は震えていた。
生徒は指を絡め、ほどき、また絡める。
「もしなれたとしても……どうせ、壊れるって思ってしまう。期待したぶんだけ、あとが痛い気がして。だったら最初から望まないほうが……安全というか……」
その“安全”という言葉に、遥の視線がわずかに揺れた。
けれど何も挟まない。生徒が続ける。
「人が優しくしてくれると、嬉しいはずなのに、胸がつまるんです。これ、いつ終わるんだろうって……。急に嫌われるんじゃないかとか。自分がそれに耐えられないんじゃないかとか」
生徒はうつむき、声をさらに落とした。
「……幸せって、失う前提で考えちゃうんです。怖くて、触れられなくなる」
沈黙が落ちる。
その沈黙が苦しさを増す前に、遥は静かに息を吸った。
「……怖くなるのは、欲しいって思ってる証拠だよ」
生徒は顔を上げられず、でも一瞬だけ指の動きが止まった。
「いらないものは、失うのが怖くない。失ったって、何も揺れないから。
でも……怖いって言えるってことは、もう触れてるってことだろ」
感情を押しつけない声音だった。ただ、事実を淡々と置くような。
「それに、人は“幸せになりたい”って思った瞬間から、失う想像をする。普通だよ。……むしろそれができるってことは、ちゃんと未来を考えてるってことでもある」
生徒の肩が小さく震えた。泣いているわけではなく、ただ力の入りどころを失ったような揺れだ。
遥は続けた。
「怖いなら、そのままでいい。無理に前向きにならなくていい。怖いって感情ごと持ったまま、少しだけ欲しがればいい。
手放す未来まで想像してるなら……握る手をゆっくり選べるだろ」
生徒は唇をかみしめ、やっと顔を上げた。目の奥はまだ不安で満ちていたが、視線は遥をきちんと捉えていた。
「……それでも、また失うかもしれないのに」
「うん。たぶん、いつか失うよ」
生徒の表情が固まった。
遥は一拍置き、静かに続けた。
「でも、“失うかもしれないから、いらない”ってなるのは……自分を守ってるようで、自分の未来を全部削ってるだけだ。
怖がったまま進むほうが、たぶんまだ残る」
生徒は深く息をついた。それは安堵ではなく、やっと呼吸が戻っただけの音だった。
立ち上がる前に、生徒は小さく言った。
「……怖いままで、生きてみます」
遥は何も返さなかった。ただ、頷いた。
相談室の扉が閉まると、室内は再び静かになった。
その静寂の中で、遥だけが動かない影のように座り続けていた。