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旧放送小屋の机を囲んだまま、十人はしばらく動けなかった。開け放した扉から朝の光が細く差し込み、床の埃の上へ斜めの線を引いている。その明るさだけが、ここが今も二〇二六年であることを教えていた。
ハヤは便箋の二枚目へ目を落とした。紙の端は湿気で柔らかくなっているのに、字だけは妙に芯がある。
《君が名札をつけないで働くたび、僕はほっとして、同時に情けなくなる》
《名前を呼べば壊してしまいそうで、呼ばなければ消えてしまいそうで、僕はいつも遅い》
胸の内側を、冷たい指でなぞられたみたいだった。
「名札をつけないで働くって……」
ハヤが呟くと、ジョンナがすぐに答えた。
「先代の娘さんです。澄江さんから聞いたことがあります。ハヤさんのお母さん、若い頃は店を手伝っていたのに、表に出るのをあまり好まなかったって」
「母さんが?」
自分の知らない母の輪郭が、古い紙の上から浮き上がってくる。花屋の奥で帳場をしていた姿しか覚えていない。小さな手で花を束ね、誰かのための言葉を添えていたことは知っている。でも、祭りとこんなふうにつながっていたなんて、考えたこともなかった。
ノイシュタットが、珍しく軽口を挟まなかった。
「続きを読んでいいか」
ハヤは小さく首を振った。
「自分で読む」
便箋は三枚目、四枚目と続いていた。真柄蒼司と名乗る差出人は、祭りの導線を考えながら、同時に一人の女性へ言えなかった気持ちを抱えていたらしい。花屋の前に客を流す順路、神社へ戻るための坂の角度、雨が降った時の誘導。そうした具体的な話の合間に、たった一行ずつ、息をつくように本音が挟まっている。
《君が言った、“手から渡した花は記憶の中では散らない”という言葉を、僕は勝手に持ち歩いている》
《いつか君の名を大勢の前で呼べる男になりたい》
アンネロスが、手を口元に当てた。
「もうこれ、手紙というより半分告白じゃないの」
「半分どころじゃないだろ」
エルドウィンが言い、ドゥシャンは「二十年越しは重いなあ」と余計な感想を漏らしてすぐ睨まれた。
ハヤは最後の一枚をめくった。
そこには事故の前日の日時と、短い追記があった。
《明日の放送が終わったら、今度こそ名前を呼ぶ》
その下の余白にだけ、筆圧の乱れた一文が残っていた。
《間に合わなかったら、花は散らないと伝えてほしい》
外から吹き込んだ風が、便箋の端を揺らした。
ノイシュタットがそっと視線を落とす。
「呼べなかったんだな」
「だから残したんでしょうね」
ジョンナの声は、静かだった。
ハヤは紙を丁寧に揃えた。母はこの手紙を受け取っていない。真柄蒼司は言えなかったまま、事故の日へ向かった。そして自分は今、その言えなかった言葉の続きに立っている。
母が口にしていた「花は散らない」は、ただの店の決まり文句ではなかったのだ。
誰かが渡したかった言葉であり、届かなかった名前の代わりでもあった。
「これ、持って帰る」
ハヤが言うと、誰も反対しなかった。
放送小屋を出る前、振り返ると、古い机はもうただの木の机には見えなかった。そこで誰かが言いそびれ、書き残し、守ろうとしたものが、今さら息を吹き返したみたいだった。