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将司から返信があったのは、就業時間を過ぎて会社を出てからのことだった。
『すぐに気づかなくてごめん。今夜は同僚たちに飲みに誘われてる。明日なら大丈夫だよ』
『話したいことがあるの。明日あなたの部屋で待ってる』
『分かった。また明日』
今までであれば、そんな何気ないやり取り一つで嬉しくなったものだが、今となってはなんの感情も起きない。
翌日、仕事を終えた私は、途中のコンビニでサンドイッチを買った。休憩コーナーの片隅に座り、それをコーヒーで流し込む。その後、重い足取りで将司の部屋へ向かい、二、三か月ほど前に渡された合鍵を使って中に入った。これを使うのは、今日が最初で最後だ。
彼が帰ってきたら、どんな風に話を切り出そうかと考えながら、私は部屋のあちこちにある私物を回収した。持参していた大きめのマイバッグに放り込み、中を覗く。意外と少ない。今回のことがなかったら、この部屋にはもっとたくさんの私の物が増えていただろう。
将司が帰って来たのは八時を過ぎていた。
私はソファに座ったままの体勢で、部屋に入ってきた彼に目を向けた。
私が沈黙している理由を、自分の帰りが遅かったためと解釈したらしく、将司は申し訳なさそうな顔をする。
「遅くなってごめん。少し残業になってさ」
彼はスーツの上着を脱いでハンガーにかけながら、私に顔を向ける。そこにはいつもと変わらない笑みが浮かんでいた。
「それで、話したいことって何?」
「まずは座って?」
「どうしたの。今日の瑞月、なんか怖い」
「怖いかしら」
「あぁ、怖い。いつもと全然違う」
将司は眉をひそめ、緊張した面持ちで私の正面に腰を下ろした。
私は彼の目を真っすぐに見つめて単刀直入に訊ねる。
「幸恵さんとはどういう関係?」
「な、何だよ、急に……」
将司の声が震えた。明らかに動揺している。
「私たちって、付き合っているのよね?そのことが私の勘違いでないのなら、将司さんは浮気をしたということになるのかしら」
彼の目が泳いだ。
「昨日の午後、倉庫で見てしまったの。あなたが女の人と一緒にいるところを。あれは別れ話?痴話喧嘩?あの人、言ってたわね。あんなにも抱いてくれたのに、って。どういう意味かしら」
将司の顔がみるみる青ざめていく。
「いたのか、あの時……」
「否定、しないのね」
「そ、それは……」
私は膝の上で拳を握りながら、ゆっくりと瞬きをした。
「別れるわ。合鍵は返します」
私はテーブルの上にことりと鍵を置いた。
「あなたと過ごした時間のことは、早く忘れるように努力しようと思う。いつかはあなたと結婚するんだろうなって夢見ていたけど、それが夢で終わって良かったのかもしれないわ。とにかくそういうことだから。今までありがとう」
言いたいことは、もう、ない。私は勢いよく立ち上がった。
将司ははっとした顔をして、私に手を伸ばす。
「瑞月、待って!話し合おう」
私は彼の手を振り払い、哀しい気持ちで恋人だった人を見下ろす。
「話し合うって、何を?私の気持ちは変わらないわ。あなたの浮気を許して、これからも今までのように笑って、あなたの傍にいるなんてこと、私にはできない」
「待ってくれ。頼むから冷静になって。彼女の方から誘って来たんだ。それでつい……」
「私は最初から冷静よ。あの時、確か彼女、あなたの方からも何回か誘ってきたとか言っていたわよね。あなたは何度も魔が差したのね」
「あ、あれは、彼女の勘違いか思い込みだよ」
「仮に彼女の思い込みだったとしても、彼女と関係したことは事実でしょう?」
「そ、それは……。でも俺は君と別れたくない。愛しているんだ」
「それなら、どうして彼女を抱いたの?浮気したの?勝手すぎる」
「瑞月……」
「さようなら。会社で会っても、必要以上に私に声をかけないで」
彼に言葉を投げつけて、私は部屋から飛び出した。追いすがるような彼の声が聞こえたが、ひどく空しいものにしか思えなかった。
別れというものは、意外と突然やってきたりするものらしい。昨日の午前中までは、自分の身にこんな不幸な出来事が降りかかるとは思いもしなかった。ショックが大きすぎるからなのか、不思議なことに、涙は一滴もこぼれない。駅に向かいながら、この後どうしようかと考える。
「どうせ明日は休みだし、飲みに行こう。それで少しでも早く忘れよう」
今までの私なら、一人で飲みに行こうなどと考えもしなかっただろう。自暴自棄になっているわけではないが、今は何かに頼って頭も心も空っぽにしたかった。
駅からほど近いある繁華街に足を向けた私は、とりあえず目についた居酒屋に入った。もともと酒に強いわけではないから、二杯目を飲み切ったところで酔いが回ってきた。けれど、それだけではまだ足りなかった。どうせなら何もかもが分からなくなるまで、とことん酔ってしまいたかった。
店が混み出してきたため、そこを出た。この後はどこで飲もうかと、次の店を探して飲み屋街を歩く。ふと、近くに凛の店があることを思い出し、元来た道を引き返した。その後、どうやって店までたどり着いたのか、記憶にない。気づけば隣に凛がいた。
「飲みすぎよ。お酒は終わり!こっちにしなさい」
少し低めの困った声が聞こえた。
それに対して、私は駄々っ子のような反応をする。
「やだっ!もっと飲む!」
「まったく、いったい何があったっていうの?あなた、お酒は弱いはずよね?それなのに、こんなになるまで飲むなんて……。わたしでよければ話してみなさい。少しは楽になるかもよ」
凛の優しい声がじわりと心に染み入った。それをきっかけにして、何かのスイッチが入ってしまった。悲しみやら悔しさやらが次から次へとあふれ出て来て、涙がぼろぼろとこぼれ出した。
「うわぁん!凛ちゃんっっ」
私は泣きながら凛に抱きついた。
凛はなぐさめるように私の背中を優しく撫でる。
「栞ちゃんと連絡が付かなくて、諒に電話したのよ。そしたら繋がったから、迎えに来るように言っておいたわ。せめて諒が来るまでは、泣きたいだけ泣いておきなさい。それにしても……」
ため息交じりのつぶやきが、耳の傍を通り過ぎる。
「この前会った時はあんなに幸せそうだったのに……。これはもう、男がらみでしかないわねぇ。……あら?意外と早かったわね」
凛の声の後に、諒の戸惑った声が続く。
「なんだよ、これは。いったい何があったんだ?」
「さぁねぇ。まぁ、だいたいの予想はついてるけどね」
二人の会話を私は夢うつつで聞いていた。次第に瞼が重くなってきて、盛大に流した涙の跡もそのままに、私はくたりとテーブルの上に突っ伏した。意識が薄れかける中、諒の呆れ声が聞こえた。
「世話が焼ける……。すぐそこのパーキングメーターに車を停めたんだ。悪いけどそこまで手伝ってくれないか」
「もちろんよ」
よいしょ、という掛け声が聞こえた。続いて、懐かしいような匂いと温もりが私を包み込む。安心しきった私はそこで完全に意識を手離した。
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