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チャイムが鳴る前から、教室の空気は出来上がっていた。
誰も合図を出していないのに、机の配置も、人の立ち位置も、自然に役割を持っている。
遥の席は、孤立するように残されていた。
(……今日も、だ)
椅子を引く音が、少しだけ遅れた。
それだけで、周囲の視線が集まる。
「おっせ」
背中に、軽い衝撃。
蹴ったというより、“当てた”だけの力。
でも、狙いは正確だった。
(わざとだ)
倒れない程度。
教師に気づかれない程度。
でも、無視できない程度。
「昨日さ、遥が逃げたって聞いたけど?」
「え、逃げたの? ダッサ」
「違うよ。逃げたんじゃなくて、“許されただけ”だろ?」
笑い声。
乾いた、楽しそうな音。
(逃げてない。許されてもない)
でも、否定する言葉は出てこない。
出した瞬間、次の段階に進むのが分かっているから。
ノートを開こうとすると、手が止められた。
上から、別の手が被さる。
「字、汚ね」
「生き方が汚いからじゃね?」
ノートが床に落ちる。
拾おうとした瞬間、足で踏まれた。
(……見えてる)
蓮司が、教室の反対側にいるのが。
誰かと笑いながら話している。
こちらを見ていないようで、でも――
(見てる)
それが一番、分かってしまう。
「なあ、昨日のあれ、どう思った?」
「泣きそうだったよな」
「“かわいそう”って言ってやればよかった?」
“かわいそう”という言葉が、刃みたいに刺さる。
(言わなくていい)
同情も、擁護も、救いもいらない。
それが一番、長引くから。
腹に、鈍い衝撃。
拳じゃない。
肘でもない。
“押し潰す”みたいな力。
「声、出すなよ」
耳元で囁かれる。
その声が、妙に優しい。
(……優しくするな)
優しさは、後で必ず回収される。
「遥さ、日下部いなくなってから、ほんと楽だよな」
その名前で、呼吸が一瞬止まる。
(……やめろ)
「守ってくれる人いないと、こんなもん?」
「元から一人だったろ」
笑い声が、重なっていく。
背中を押され、机にぶつかる。
ガン、という音。
でも誰も驚かない。
(ここでは、これが普通)
教室の“音”。
「先生来る前に、片付けろよ」
「ほら、拾え」
床に散らばったノート。
踏まれたページ。
汚れた文字。
遥は、黙ってしゃがむ。
(……怒るな)
怒ったら、次は“正当化”される。
殴られる理由が、増える。
指先が震える。
それを見て、誰かが笑った。
「震えてんじゃん」
「寒い?」
「それとも、怖い?」
(……どっちでもいい)
答えた瞬間、負けになる。
チャイムが鳴る。
教師が入ってくる。
一斉に、全てが元に戻る。
椅子に座る音。
教科書を開く音。
“普通”の教室。
(……終わった)
でも、本当は違う。
これは終わりじゃない。
確認だ。
――壊れすぎていないか。
――まだ、反応するか。
視線を上げた瞬間、蓮司と一瞬だけ目が合った。
笑っていない。
でも、冷たくもない。
ただ、確かめるような目。
(……ああ)
分かってしまう。
(これで、いい)
殴られても。
罵られても。
誰も止めなくても。
(壊れきってない)
その事実だけが、
今日の“合格”だった。
遥は、ノートを閉じて、前を向いた。
心の奥で、小さく何かが軋む音がしたが、
それを聞かないふりをした。
――まだ、次がある。