その日、撮影は早めに終わった。スタッフが撤収作業を進めるなか、泉は機材箱を片づけながら、昨夜の“指の感触”を消しきれずにいた。
触れられた首筋。
囁かれた声。
「揺れてる。それでいい」
柳瀬のあの言葉が、まだ脈の奥に残っている。
胸の内がざわつくたび、泉は呼吸を整えようとした。
落ち着け。今日は仕事だ。ただの仕事だ。
そう思っていた──のに。
「泉、来い」
スタジオの奥から呼ぶ声。
例の“触れた”夜と同じ、静かな低音だった。
泉は少し遅れて返事をし、歩み寄る。
柳瀬は片手に小さな金属の束を持っていた。
鍵だ。
「……何ですか、それ」
柳瀬は答える前に、泉の前へそれを差し出した。
「スタジオの合鍵だ。持て」
「え……なんで俺に?」
「使うからに決まってる」
淡々と言い切られ、泉は息を飲んだ。
「別に、お前を優遇してるわけじゃない。
必要だから渡すだけだ」
優しさではなく、“利用の宣言”。
それが泉にははっきりわかった。
彼はためらいながら鍵を受け取る。
金属が掌に沈む感覚だけで、体が熱を持った。
「使う日は連絡しろ」
柳瀬はまっすぐ言った。
「……連絡、ですか」
「当然だろ。
誰が、いつ、どこにいるかわからない空間に、勝手に入られると困る」
泉の喉がひくりと動いた。
――“困る”理由は言われなくてもわかる。
昨日、自分がどれだけ揺れたかを柳瀬は知っている。
そしてその揺れ方を、彼は精密に管理し始めている。
「でも……俺、ただの新人で……」
「仕事を回す上で、俺が使いやすいほうがいい」
泉は言葉を失う。
柳瀬は、あくまで“業務の一環”として突き放すように言う。
なのに、声の奥に確かに熱がある。
あの夜の余韻を引きずっているのは、泉だけじゃない。
「泉」
「……はい」
柳瀬の視線が、鍵を握る泉の手に落ちる。
そのまま、ゆっくりと泉の手首へ伸びてくる。
触れない。
触れそうで、触れない。
ほんの数ミリの隙間を残したまま、彼の指先が空気を震わせる。
「その鍵、お前が勝手に使えば、俺が困る」
低く淡々とした声。
なのに、その“困る”の意味が普通じゃないと、泉は痛いほど理解した。
「……使わないですよ、勝手に」
「嘘は要らない」
泉が息を止める。
柳瀬は一歩近づき、触れもしないのに泉の手を逃がさない距離まで迫った。
昨夜よりも近い。
触れられていないのに、触れられたときより息が苦しい。
「来る前に、必ず連絡しろ。
俺が先にいるなら入れ。
俺がいないなら、待て」
「……待つ?」
「そうだ。
鍵があっても、勝手に開けるな」
泉の胸が強く脈打つ。
それは命令ではない。支配でもない。
もっと静かで、もっと逃げられない形の“条件”だった。
気づいたら、泉は小さく頷いていた。
「……わかりました」
それを聞いた瞬間、柳瀬の目がわずかに細くなる。
満足そうでも、安堵でもない。
ただ“予定通り”という顔。
「いい判断だ」
指先が、泉の頬に触れた──かと思った瞬間、触れずに引いた。
その“触れない”数ミリの距離だけで、泉は呼吸が乱れた。
柳瀬はわざとやっている。
触れもしないことで、泉の反応を測るように。
「鍵は落とすな」
「……大事にします」
「“大事”じゃない。必要だから持て」
淡々としたその言葉に、泉は逆に胸が揺れる。
柳瀬は去り際、振り向かずに言った。
「次来るとき、ちゃんと連絡しろ。
……続きがある」
泉の手の中の鍵が、体温より熱く感じた。
触れられないのに、全身が反応している。
そして泉は悟った。
――鍵を受け取った瞬間から、もう逃げられない。
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