テラーノベル
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部屋の空気が、どこか異様だった。湿度は低いはずなのに、肌にまとわりつく何かがある。酸素が薄い。思考が鈍る。
玄関の扉が閉じられる音――鉄格子のように、その音は悠翔を外の世界から切り離した。
蓮翔は靴を脱がずに部屋に上がり、ソファにどっかりと腰を下ろす。
手にしていた缶コーヒーを机に無造作に置き、スマホを取り出した。
「でさ、ほら。これこれ」
蓮翔が差し出してきた画面には、あの動画のコメント欄が表示されていた。
「キモいw」「ガチ奴隷じゃんw」「中高生時代からって、すげーな」「台本じゃね?」
誰かが笑っていた。顔も知らない誰かが、悠翔の「過去」を興味深く観察していた。
「バズってんじゃん、やっぱお前って“素材”なんだよなあ」
悠翔は口を開かなかった。
もはや、何をどう抗えばいいかさえ、思い出せなかった。言葉が脳で組み上がる前に、身体が萎縮してしまっていた。
やがて扉が開く音。
陽翔と蒼翔が、無言のまま部屋へ入ってくる。
蒼翔は両手に縄と折りたたみ式の黒布、それに簡易三脚。
陽翔は小さな紙袋を持っていた。中にはメモ帳、白いリボン、そして――赤黒いスプレー缶。
「カメラ、ここに置くぞ」
陽翔の声は事務的だった。演技でも感情でもない。ただの運営者の声。
三脚の位置を確認し、スマホを取り付けると、赤いランプが一瞬だけ点滅して消えた。
「リハ、いくか」
冗談めいた蓮翔の声に、蒼翔が反応した。
「台詞、ちゃんと言わせろ。止まったら撮り直しな」
陽翔はメモをひらりと投げた。そこにはこう書かれていた。
台本(一部抜粋)
蓮翔がスマホを構えた。蒼翔が悠翔の腕を掴み、椅子に座らせる。
動きは淡々としていた。まるで、すでに何度も撮影をこなしてきたかのような、慣れのようなものすらあった。
悠翔の背筋が椅子の背もたれに張り付き、指が震える。
「……どうも」
声が掠れた。目線はカメラのレンズを避け、どこか床の染みを見ていた。
「ちゃんと目見ろ」
蒼翔が静かに言い、太ももにスプレー缶の底を打ちつけた。音が部屋にこだまする。
悠翔は条件反射のように顔を上げる。その目の奥に、あの体育倉庫の蛍光灯がよみがえっていた。
「僕は……天城悠翔。奴隷です……」
空気が凍った。いや、それは自分自身の心だった。凍ったのは、尊厳そのものだった。
陽翔が小さくうなずき、言った。
「オーケー。じゃあ、進めよう。あとはいつもの“お楽しみ”」
蓮翔が笑いながら近づいてくる。
背中に手を回され、縄が手首に絡む。蒼翔は布を持って、床にゆっくりと敷き始めていた。そこはまるで、儀式の祭壇のようだった。
「ほら、“やられ役”って、大学でも貴重だしな」
「サークルにも見せとく? 評判上がるかもよ」
兄たちの声が、遠ざかったり近づいたりする。意識が揺れていた。
悠翔は、自分の喉が乾いていることにすら、今は気づけなかった。
胸の奥で、微かに何かが叫んでいる――それが声になる前に、レンズが赤く光を放った。
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