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スタジオ脇の控室。
本来なら撮影道具が散らばっているだけの、乾いた空気の部屋。だが今は、照明が落とされ、呼吸の音だけが静かに満ちていた。
ソファの背にもたれた泉は、まだ整わない息を押し殺し、天井を見ていた。
シャツは半分ほど乱れ、肩口は汗で貼りついている。
体の芯だけが熱く、その余韻が抜けない。
――自分は、何をしたんだ。
隣の椅子に腰を下ろした柳瀬は、乱れた呼吸ひとつ見せず、淡々と腕時計の時間を確認していた。
その落ち着き方が逆に、泉の胸を締めつける。
「……落ち着いたか」
声は静かだった。
あの行為のあととは思えないほど、いつもの柳瀬の音。
泉は返事をせず、唇を噛んだまま目を逸らす。
喉が熱い。胸の奥がざわついて止まらない。
「……なんで、あんな……」
「理由が必要か?」
淡々と返され、泉は言葉を失った。
さっきの自分の反応。
手を伸ばしそうになった瞬間――
触れようとしたら、柳瀬がその手首をつまんで静かに止めた。
“主導権を奪うな。
お前は反応していればいい。”
その言葉が、まだ耳に残っている。
屈辱なのに、逃げられなかった。
柳瀬は泉の隣に移動し、距離を詰める。
泉は反射的に身を引こうとしたが、背もたれがそれを許さない。
「泉」
名前を呼ばれるだけで、体が反応する。
触れられた場所が、まだ明確に思い出せてしまう。
柳瀬は泉の乱れたシャツを一度整えようとして、途中で指を止めた。
わざと整えず、そのまま乱れを残す。
「……そのままでいい」
「……なんで」
「まだ終わってないからだ」
息が詰まる。
柳瀬は泉の顎の下に指を添え、わずかに上を向かせる。
その仕草があまりにも自然で、支配的で、泉は抗えなかった。
「さっき……触れようとしただろ」
低い声。
泉は瞬きもできず、ただ小さく頷いた。
「……触れたら、ダメなんですか」
「ダメだ」
即答だった。
泉の胸がさらに熱を帯びる。
拒絶ではなく、線引き。
その境界がどんどん曖昧になっている。
柳瀬は泉の右手を取り、指先をひとつずつほどくように触れた。
なぞるだけなのに、体が跳ねる。
「お前が触れたら、流れが変わる。
俺が押す側だ。……お前は、反応する側だ」
「……それだけですか」
「それだけで充分だ」
柳瀬の指が泉の手の甲をなぞり、手首へ降りる。
触れられるたびに、行為の余韻が蘇る。
「泉。……さっきの“声”、聞こえてた」
その一言で、泉の息が止まった。
柳瀬は、泉の手首に触れたまま目を細める。
「ああいうのが、欲しいんだよ。
仕事にも、俺にも」
「……利用してるだけじゃないですか」
泉は耐えきれず呟いた。
声が震えすぎているのが、自分でもわかった。
柳瀬はその言葉に、わずかに唇をゆるめた。笑いではない。理解の合図。
「利用してる。
だが――お前も俺を使ってる」
泉は思わず柳瀬を見た。
「……俺が、何を」
「揺れたい時だけ、俺を見てくるだろ。
頼りたい時だけ、俺の側に来る」
泉の胸が締めつけられた。
「間違ってない。
でも境界線は……お前が思ってるより薄い」
柳瀬は泉の首筋に軽く触れた。
そこは、つい先ほどまで指が深く押し当てられていた場所。
「これは仕事じゃない。
今触れてるのは……俺の判断だ」
それは告白ではない。
ただの宣告。
けれど泉の心は、ゆっくり崩れていく。
柳瀬は手を離さないまま言った。
「次は……自分が何を望むかくらい、はっきりさせろ。
じゃないと、またこうなるぞ」
“こうなる”
――さっきの行為のことだ。
泉の喉が震えた。
否定も肯定もできない。
柳瀬は立ち上がり、扉の前で振り返る。
「帰るぞ。
……まだ途中だからな」
泉の体は言葉より先に動いてしまう。
境界線など、もう残っていなかった。