放課後、陸と湊は二人で住宅街を歩いていた。
「……今日はちょっと寄ってもいいか?」
湊が聞くと、陸は肩をすくめ、短く答える。
「別に構わねえけど」
無表情だが、目の端に微かな警戒が残る。
陸の家の前に立つと、玄関から声が聞こえてきた。
「……あなた、どうしてそうなの!」
母親の声は鋭く、苛立ちが混じる。続けて父親の低い声も重なる。
「分かってんのか、これでも!」
互いに責め合う緊張感。湊はそっと肩を陸に寄せる。
「……家、こういう感じなのか?」
陸は視線を落とす。
「……まあ、普通だ」
短く言い放つ言葉に、強がりと諦めが混じっている。
玄関が開き、陸の弟が小さく廊下を横切る。
兄の視線を避けるように、うつむき、音を押さえている。
母親はなおも声を荒げ、父親も短く言い返す。
湊は瞬間的に理解した。
――この家では、言葉が攻撃になり、家族間の距離は冷たく、居場所は限られている。
陸は無言で階段を上がり、湊は続く。
廊下に並んだ部屋の扉はどれも半開きで、物音が漏れてくる。
兄らしい影が一瞬、視線を浴びせ、すぐに背を向けた。
弟も机に向かう気配だが、肩を震わせながら小さくため息をつく。
家族全体が互いに気を遣い、緊張を抱えて生きている。
陸の部屋に入る。
机の上には教科書やノート、乱れた衣類。ベッドはシーツがぐしゃりと丸まっている。
陸は窓際の椅子に腰かけ、背を丸める。
「……これが、俺の世界だ」
声は低く、微かに解放感が混じる。
湊はそっと隣に腰を下ろす。
「……無理に話さなくてもいい」
陸は視線を落としたまま、小さく息を吐く。
「……俺、弱いところ見せるの嫌だから」
「無理に見せろとは言わない」
湊の声は柔らかく、確かな意思がある。
沈黙の後、陸の手が机の端を小さく叩く。
「……弟には、もっと厳しいんだ」
声はかすかで、湊は耳を澄ます。
「母さんは、言葉で責めるだけ。父さんは無関心に見えるときが多い」
「……それで、弟はどうしてる?」
陸は肩をすくめ、視線を伏せる。
「耐えてる。俺もそうだった」
湊は胸が締め付けられるのを感じた。
幼い頃、陸の無邪気な笑顔は、この影に覆われることがなかった。
今、家族の複雑さと圧力が、彼を静かに縛り付けている。
「……それで、家の中では強がってるのか?」
湊が低く聞くと、陸は少し顔を上げた。
「……当たり前だ。弱いと、踏みつけられる」
声には冷たさがあるが、どこか寂しさも滲む。
窓から差し込む夕陽が部屋をオレンジ色に染める。
湊はノートを開き、昨日教えた数学の問題を軽く復習するふりをして、陸の肩越しに目を落とす。
「……家庭のこと、全部は知らないけど、少しずつでも理解したい」
陸は目を合わせず、小さく頷いた。
沈黙が続く中、部屋の奥で弟が小さく咳払いをする。
「……弟も、こんなに気を遣ってるんだな」
湊は心の中で呟く。
陸はその言葉を聞かず、視線を窓の外に移すが、肩の力はわずかに緩んだ。
「……ありがとう、湊」
陸の声は、普段の強気な口調とは違う、心からの感謝だった。
湊は微笑み、そっと肩に手を置く。
「大丈夫。俺はここにいる。無理に話さなくてもいい」
夕焼けが長く二人の影を伸ばし、部屋を暖かく染める。
家庭の影は深く、簡単には消えない。
でも、湊の存在が陸にとって小さな光となり、わずかに安らぎを与えているのを、二人とも感じていた。
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