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雨は、降るほどでもない霧雨だった。
真琴は学校帰り、そのまま探偵社に寄った。
制服のまま椅子に腰を下ろし、机の上の箱を見下ろす。
昨日、しまったはずの資料。
なのに、箱の向きがわずかに違う。
「誰か見た?」
「俺」
燈が即答した。
「気になって。ちょっとだけな」
「ちょっと、ね」
責める調子ではなかった。
玲も頷く。
「私も。並べ直しただけ」
澪が申し訳なさそうに付け加える。
「ページ番号、振ってみたんです」
真琴は、少しだけ眉を上げた。
「……振れた?」
「はい」
澪はノートを差し出す。
「欠けがない。
現場写真、報告書、検視結果。
事故処理に必要なものは、全部そろってます」
燈が肩をすくめる。
「そりゃ事故だな」
「事故なら」
真琴は、ノートを受け取りながら言った。
「残らないものがある」
玲が静かに続ける。
「現場に最初に到着した警官の、走り書き」
「近隣聞き込みのメモ」
「矛盾を打ち消すための、余分な紙」
一つひとつ挙げるたびに、空気が重くなる。
澪が小さく呟いた。
「“不要なもの”が、最初から存在しなかったみたいです」
真琴は、箱の中の資料を一枚抜き取る。
写真。
河川敷。
靴の向き。
転倒の角度。
「事故ってさ」
写真の端を指でなぞる。
「現場が語る前に、人が喋るよね」
燈が鼻で笑う。
「『酔ってた』『足滑らせた』『運が悪かった』」
「そう」
真琴は頷いた。
「でもこの事件、語りがない」
玲がぽつりと言う。
「結論だけがある」
そのとき、スマホが震えた。
画面には、木津の名前。
真琴は一瞬だけ皆を見てから、通話に出た。
「もしもし、木津さん」
『今、大丈夫か』
「うん」
『資料、見てるな』
「まあね」
短い沈黙。
『……警察の中で、この件は終わってる』
「知ってる」
『だから、記録もこれ以上増えない』
真琴は、窓の外を見る。
霧雨が、街を曖昧にしていた。
「ねえ、木津さん」
『何だ』
「この資料さ」
一拍。
「誰が残したか、分かる?」
電話の向こうで、息を吸う音がした。
『……分からないほうがいい』
「じゃあ、聞き方変える」
真琴は淡々と言った。
「これ、残すって決めた人はいる?」
また、沈黙。
『……いる』
それだけだった。
通話が切れる。
探偵社に、静けさが戻った。
澪が小さく息を吐く。
「残し方、じゃなくて……」
玲が続きを受け取る。
「残すかどうか、ですね」
燈が椅子から立ち上がる。
「で、どうする」
真琴は箱を閉じ、棚の一番下に押し込んだ。
「すぐには触らない」
「意外」
「意外じゃないよ」
真琴は笑わなかった。
「これは――
勝手に動くと、向こうが決めてくるやつだから」
雨は、いつの間にか止んでいた。
だが、地面には薄く水が残っている。
踏み込めば、足跡は必ずつく。
よはく探偵社は、その夜、灯りを早めに落とした。
それでも、
“残されたもの”だけは、静かにそこにあった。