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十月十七日、霧守町の町議会傍聴席は思ったより狭かった。木の椅子が並び、窓の外には薄い曇り空が見える。白群リゾート側の資料は立派な紙に印刷され、商店街側の資料は少しだけ紙質が違う。見た目だけなら、最初から勝負にならないようにも見えた。
けれど、ハヤは今日は逃げなかった。
胸元には甘い名札がある。祭りの日だけのものではなくなった紙が、エプロンではなく薄い灰色の上着に留まっている。
議場では、白群側の担当者が滑らかに説明していた。
「安全性と快適性を両立し、地域資源を一体的に活用することで――」
聞こえは良い。整っていて、反論しにくい。何も間違っていない顔の文章ばかりだ。
その隣で、オブラスが商店街側の資料を開いた。回遊人数、売上推移、再来店率、近隣店舗の相乗効果。数字はきちんと並び、逃げ道を与えない。
議員の一人が言う。
「数字は分かりました。ただ、それが続く保証は?」
別の議員が続ける。
「祭りが一時的に盛り上がっただけかもしれない」
想定していた質問だ。オブラスは冷静に答える。ジョンナは法的な観点を補う。ノイシュタットは今日は一歩引いて、資料を渡す役に徹していた。
それでも、最後に一つ足りない。
その空白が来た時、オブラスは横目でハヤを見た。
出る番だった。
足が一瞬だけ重くなる。立たなくても、誰も責めないかもしれない。うまく話せなくても、資料はもう出ている。ここで黙る理由はいくらでも見つかる。
でも、その全部は前に自分が入っていた柔らかい檻と同じだと、もう分かっていた。
ハヤは立ち上がった。
議場の空気が少し変わる。名前を知らない人たちの前に、自分の体がきちんとある。胸の名札が小さく揺れた。
「花屋の、ハヤです」
最初にそれだけを言う。声は少し震えたが、消えなかった。
手元の紙は見ないことにした。
見たら、そこに逃げてしまいそうだった。
「うちの店では、花を売っています。でも、渡しているのは花だけじゃありません」
白群の担当者がわずかに顔を上げる。議員たちも静かになる。
「供花を頼みに来た人が、帰る時に少しだけ背筋を伸ばせることがあります。仲直りの花束を取りに来た人が、包みを受け取る前に三回言い直すことがあります。誰かに渡すものを選ぶ時、人は自分の言葉を探します」
議場の時計の音が、一つだけ大きく聞こえた。
「祭りで人が回るのは、面白いからだけじゃありません。店の場所を覚えて、声をかける人の名前を覚えて、何かあった時に、あそこへ行けばいいと思えるからです」
ハヤは一度だけ息を吸う。
「この花屋は、売り物だけでなく、名前と記憶を渡しています」
それで終わりだった。
長い演説ではない。本当に、それだけしか言っていない。
なのに、言い終えた瞬間、膝が少し遅れて震えた。今さら怖さが追いついたのだと分かる。
傍聴席の後ろで、アンネロスが腕を組み、エフチキアが両手を握り、ドゥシャンは今にも拍手しそうな顔でこらえている。ノイシュタットは、珍しく何も飾らない目でこちらを見ていた。
議員の一人が資料を閉じる。
「……分かりました」
それは賛成でも反対でもない、途中の言葉だった。けれど、前よりずっとましな途中だった。
議場を出たあと、廊下の窓から薄い日が差した。ハヤは壁へ背中を預け、ようやく息を吐く。
「三分もいりませんでしたね」
オブラスが言う。
「一分半くらい」
ジョンナが時計を見る。
「でも、十分だった」
ノイシュタットが静かに続けた。
ハヤはうまく笑えなかった。代わりに、胸元の名札をそっと押さえた。
前に出た。震えながらでも、ちゃんと自分の名前で。
その小さな事実が、秋の曇り空より少しだけ明るく、体の中に残っていた。