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第6話:ためいきの記憶
その日、物置の空気はどこか重たかった。
西陽は変わらず差し込んでいるのに、畳の色が昨日より濃く見えた。
私はいつものように本を開く。けれど、そこに浮かび上がってきた文字は、これまでとはどこか違っていた。
「はなすと おこられる」
「しずかにしていれば まだ ましだった」
声にならない、けれど確かな苦しみ。
まるで、こぼれかけた独白が、紙に吸い込まれているようだった。
私はゆっくりとページをめくる。
西陽の角度が変わるにつれ、新たな言葉が浮かんでくる。
「ちがうと おもっても いえなかった」
「なにかいえば こえをかえられる」
“声を変えられる”——その意味がすぐには飲み込めなかった。
けれど、それはおそらく、言葉の裏を捻じ曲げられる、という意味だと気づく。
祖父は、いつも黙っていた。
祖母の前では特に。
*
祖母の姿が、頭に浮かぶ。
濃い灰色の着物をきっちりと着こなし、まっすぐな背筋で食卓に座る。
目元の皺は浅く、整った輪郭。唇は紅を引かずにいても存在感があり、見つめられるだけで言葉を失ってしまいそうな、そんな人だった。
一言で済むことを、三倍の言葉にして相手の口を塞ぐ。
それを祖母は、決して怒鳴らず、ただ“理屈”のような顔をしてやってのけた。
祖父はそれに、口をつぐんでいたのだ。
本にはさらにこう書かれていた。
「くちをひらかないことが まもりだった」
「ためいきのかわりに ひとりで にわをあるいた」
確かに祖父は、よく庭を歩いていた。
何をするでもなく、雑草を見てはしゃがみ、落ち葉を拾い、何も言わずにまた立ち上がる。
私が祖父と並んで庭を歩いたとき、祖父はいつも、
「ようがあるんじゃない。ただ、ここにおるだけでええ」
と、ぽつりと言った。
その意味が今、ようやくわかる気がした。
*
次のページに目をやると、紙の上に不思議な空白ができていた。
文字の間が、少し広い。まるで、言葉にするには間が必要だったような、そんな余白。
そして、そのあとにこう書かれていた。
「ほんとうは わたしも こえをあげたかった」
ページの端に、薄くかすれたしみがあった。
それは、にじんだインクなのか、あるいは——
*
私はその日、本を閉じるときに、そっとため息をついた。
まるで、誰かと交代するように。
誰もいない物置の中。
でも、不思議と孤独ではなかった。