テラーノベル
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放課後の廊下は、もう誰の声も残っていない。蛍光灯の白さが、空気の奥に沈んだままのものを剥き出しにしていた。遥は、その白さに背中を押されるように、日下部の背中に声をかけた。
「なあ……」
日下部が振り返る。いつものように、少しだけ間を空けて、それから「ん」と短く応える。遥はほんの一瞬、口を閉じた。自分が何を言おうとしているのか、はっきりしないまま立ち止まる。だけど、それでも何かを壊したかった。揺らしたかった。証明したかった。
「……おまえさ、なんで俺にそんな優しくすんの」
それは遥の中で長いあいだ濁っていた問いだった。けれど、口に出した瞬間、まるでそれが「責め」のように響いてしまったことに、自分でも気づいてしまう。日下部のまなざしが少しだけ沈んだのが、遥の胸の奥を鈍く突いた。
「優しくされたら……なんか困るわけ?」
「困るっていうか……」
遥は鼻で笑ったふりをした。でも声は乾いていた。
「そーいうの、やめた方がいいよ。俺みたいなやつにさ。あんま、期待しないほうがいい。裏切るし。……そのうちムカつくようなこと言うし。多分、おまえのことだって……裏切るかも」
言いながら、自分がどこまで本気なのかもわからなくなる。だけど、それが「試し行動」だなんて、自分で認めるのはもっと苦しかった。
「そんときさ、おまえ……どうすんの」
沈黙。目を逸らせなかった。見ないと壊れそうで、見てると泣きそうだった。
「嫌いになんの? もう関わりたくないってなる? ……そうだよな、普通、そうだよな……」
ようやく視線を落とした。足元の床の線が、まっすぐすぎて遠くまで続いていた。逃げ道なんか、どこにもない。
だけど。
「そんなの、別に気にしてないけど」
日下部の声は変わらなかった。ただ、ほんのわずかだけ、目を伏せて笑ったように見えた。
「おまえがどうなっても、別に俺は……そんで終わりってわけじゃないし」
遥は、その意味をすぐには掴めなかった。ただ、胸の奥が軋んだ。自分が投げたナイフを、あいつは素手で受けとって、そのままポケットにしまったみたいだった。
そんなやつ、知らない。
遥は息を詰めたまま、次の言葉が出せなくなった。
そして、もっと困らせたくなった。
この優しさを、本当に壊してしまいたくなった――自分を壊す前に。