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夕方、玄関の鍵が回る音がした。
いつもより少しだけ、間が長い。
アレクシスはキッチンでフライパンを火にかけたまま、その音を聞いていた。油が温まる軽い音と、玄関の気配が重なる。
「……ただいま」
真白の声は低めで、抑えている感じがあった。
「おかえり。寒かった?」
「外はまあまあ」
コートを脱ぐ音、鞄を床に置く音。
いつもならそのままキッチンを覗きに来るのに、今日は少し遅い。
アレクシスは火を弱めて、振り返った。
「疲れてる?」
「んー……そうでもない、と思う」
真白は曖昧に笑って、ダイニングチェアに腰を下ろす。
背もたれに体を預け、深く息を吐いた。
「“そうでもない”は、だいたい疲れてるときの言い方だよ」
「……観察しすぎ」
そう言いながら、真白は否定しきれていない。
目の焦点が少し甘い。
アレクシスは何も言わず、棚からマグカップを二つ出した。
片方にお湯を注ぎ、もう片方には少し冷ましてから同じものを入れる。
「はい」
「……ありがと」
真白は受け取って、両手で包む。
すぐに飲まず、温度を確かめるみたいに、しばらくそのまま持っていた。
沈黙が落ちる。
気まずさではなく、音が少ないだけの時間。
換気扇の低い音。
フライパンの中で、野菜が静かに色を変える。
「今日さ」
真白がぽつりと切り出す。
「別に嫌なことがあったわけじゃないんだけど」
「うん」
「なんか、ずっと人と話してて……頭が追いつかなくなった」
アレクシスは相槌だけを返す。続きを急がせない。
「帰ってきて、鍵開けたら、ちょっと安心した」
「それはよかった」
真白はマグカップに口をつけ、少しだけ飲む。
「ここ、静かだよね」
「二人しかいないからね」
「それがいい」
言い切りだった。
アレクシスはフライパンを揺らしながら、視線だけを真白に向ける。
「今日は早めにご飯にしようか」
「うん。あと……食べたら、少し横になっていい?」
「もちろん」
真白はそれを聞いて、肩の力を抜いた。
さっきより、呼吸が整っている。
玄関の鍵は、もう動かない。
外と中を分ける音は、役目を終えていた。