コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
夕立は、何の前触れもなく始まった。
さっきまで曇り空だったはずの街は、急に白い水幕に覆われる。容赦なく叩きつける雨粒に視界が奪われ、通行人たちが一斉に悲鳴を上げて駆け出していく。
「朔!」
晴弥が短く呼ぶ。
彼の声が雷鳴にかき消される前に、朔は顔を上げた。駅前の人波に押され、立ち止まることさえ難しい。
さっきまでの言い合いは、まだ胸の中にくすぶっていた。
思いが噛み合わない苛立ち。
距離が縮まらないもどかしさ。
そして、本当は近づきたくて仕方ない心。
それらをすべて濁流がさらっていくかのように、空は荒れ狂っていた。
「こっち!」
晴弥が傘を開いたが、強風がそれを容赦なくあおる。
布が裏返り、金具が軋む。
次の瞬間、晴弥は――
その傘を、手放した。
ばさり、と音を立てて飛んだ傘は、あっという間に道の端へ消えた。
「なっ……ちょ、晴弥!?」
朔は驚いて声を上げる。
「邪魔だった」
濡れた前髪の隙間から、晴弥の瞳がまっすぐ朔を射抜く。
その熱が、雨よりも先に朔の肌を焦がす。
「お前と走りたい」
「……っ」
返事を待たず、晴弥は朔の手をつかんだ。
濡れた掌が、確かに絡む。
その一瞬で、朔の内側の何かが激しく脈打った。
二人は雨の中を駆け出す。
舗道に跳ねる水しぶきが、足元から勢いよく弾ける。
息が切れるほど走りながら、互いを見失わないように握った手は離れない。
「なんで……っ、急に」
朔が途切れ途切れに言う。
晴弥は振り向かない。
ただ強く、確かに、手を引き寄せ続ける。
道の端に滑り込みながら、二人はようやく立ち止まった。
荒い息を整える暇もなく、雨が容赦なく肌を叩きつける。
吐く息が熱い。
けれど、体は冷えていく。
矛盾だらけの感覚が、全身を駆け巡る。
晴弥が朔の肩を掴む。
「忘れんなよ。俺は、ちゃんとここにいるから」
その言葉は、胸に突き刺さるように響いた。
「晴弥……」
呼ぶ声が震えていたのは、寒さのせいじゃない。
ぐっと引き寄せられる。
水滴が二人の間を滑り落ちる。
顔が近づく。
髪から滴る雨が、朔の頬に触れた晴弥の指先を濡らした。
朔の背に添えられた腕が、逃がさないように強まる。
すぐそこに、晴弥の息。
唇の熱。
その距離は、一瞬で消える。
触れた。
世界が止まった。
雨粒が弾ける音だけが、遠くで響いている。
視界が霞むほどの水煙の中、二人は確かに存在し、互いを確かに掴んでいた。
指先が強く絡み合う。
体温が溶け合う。
言葉なんて、もう要らない。
ただ、離れたくなかった。
ほんの一瞬。
しかし永遠のように深い、決定的なキス。
晴弥がゆっくり目を開き、朔の濡れた頬を親指で拭う。
「……これで、わかったろ」
朔は答えようとして、声にならない。
ただ、瞳に溢れる想いだけが正直だった。
雨はまだ止まない。
だがその中で、確かに二人は――
逃げずに向き合う場所へ、たどり着いたのだった。