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その人は、いつも静かだった。
声を荒げることも、距離を詰めすぎることもない。
ただ、必ず私を指名して、 必ず長い時間を取る。
「今日は忙しい?」
席に着いた瞬間の、その一言。
心配なのか、確認なのか、どっちとも取れる言い方。
「まあまあ」
そう答えると、
「無理しなくていいよ」って言う。
それができたら苦労しない。
ボトルが入る。
特別高いわけじゃないけど、 毎月欠かさない。
それが一番、太い。
「最近、疲れてる顔してる」
ライトの下で、そんなこと言われると、見透かされた気がして目を逸らす。
「そう?」
笑う。
ちゃんと、営業用の笑顔。
でもその人は、私のグラスより先に、自分のグラスを空けた。
「今日は、飲まなくていい」
それ、指示なのか、気遣いなのか。
「いいの?」
「うん。
君が潰れるの、見たくないから」
“君”。
名前じゃない呼び方が、妙に近い。
隣に座る距離が、いつもより少しだけ狭い。
触れてはいない。
でも、触れられる前の距離。
「この仕事、いつまでやるの?」
急に聞かれて、返事が遅れる。
「考えてない」
正直だった。
「辞めたら、どうする?」
未来の話。
店の外の話。
それを、この席でするのは、ルール違反のはずなのに。
「普通に働くと思う」
“普通”が何か、自分でもよく分からないまま。
その人は、少しだけ笑った。
「君、
ここにいなくても生きていけそうだよね」
それ、褒め言葉じゃない。
でも、否定もできない。
会計のとき、いつもより静かだった。
延長はしなかった。
それなのに、満足そうだった。
帰り際、私の手に、そっと何かを残す。
名刺。
仕事用のじゃない。
「連絡、
したくなったらでいい」
“営業じゃなくて” とは言わなかった。
言わない方が、境界が曖昧になるから。
バックヤードで、その名刺を見つめる。
捨てるには、重すぎる。
持つには、危険すぎる。
ロッカーに入れて、私は何も考えないふりをした。
この夜、何も起きていない。
それなのに、一番危ない線だけ、静かに越えかけていた。