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雨の匂いが、街に残っていた。
昨夜の激しい雨が嘘のように止み、舗道には薄い水の膜が光を映している。
真白は傘を閉じ、会社へと向かって歩いていた。
眠れぬ夜のあと――夢の中で、またあの金髪の青年を見た。
彼は微笑みながら、何かを言おうとした。
だが、その声が届く前に目が覚めた。
あの事故の青年。
救急車に運ばれるとき、確かに自分の名を呼んだ気がする。
「ましろ」と。
――どうして、知っているんだろう。
思い出せない既視感が、ずっと胸の奥で鳴っていた。
オフィスに着くと、いつも通りの無機質な空気が待っていた。
挨拶のない朝。沈黙した会議室。
真白は席につき、ディスプレイに向かう。
今描いているキャラクターは、もう「他人」ではないように感じた。
モニターの中で、彼の瞳がこちらを見返すたび、現実と夢の境界が曖昧になる。
昼休み、気分転換に外へ出た。
街路樹の下で風を吸い込む。雨上がりの空気が冷たく、どこか懐かしい。
ふと、背後から声がした。
「――真白?」
振り返った瞬間、時間が止まった。
そこに立っていたのは、夢で何度も見た青年。
金色の髪が風に揺れ、淡い光の粒がその周囲を漂っているように見えた。
現実の景色の中で、その存在だけが異質で、美しかった。
「……どうして、あなたが」
真白の声は震えていた。
アレクシスは微笑む。その瞳の奥には、再会の確信が宿っていた。
「助けてくれたのは、君だね。ありがとう」
その声に、真白の心が反応する。懐かしい響き。
聞いたことのない言語のようで、しかし魂が覚えている音色。
「どうして、僕の名前を……?」
問いかけると、アレクシスは少し悲しげに目を伏せた。
「……思い出せない。けれど、ずっと昔に、君を呼んだ気がする」
沈黙が降りた。
街の音が遠ざかり、風だけが二人の間を通り抜ける。
真白は何かを言いかけたが、言葉にならなかった。
胸の奥で、記憶にならない記憶が疼く。
“君を見つけたい”――誰かがそう言った気がする。
アレクシスは小さな包みを取り出した。
白い布に包まれた、ひと輪の花。
――夢の中で、彼がいつも手にしていた花だった。
「これを、君に」
差し出された瞬間、真白の指先が震えた。
触れた途端、遠い風の音と、光の庭の記憶が蘇る。
あの庭。白い霧。散る花びら。
「また会おう」と言った声。
それが、彼だった――。
真白は言葉を失ったまま、ただ花を見つめた。
アレクシスの微笑は、どこか哀しい。
「これは、この世界に来る前に……誰かと交わした約束の印なんだ」
「約束……?」
「うん。ずっと、探していた。何かを、誰かを――」
その“誰か”が自分なのだと、真白は本能的に悟った。
しかし、口には出せなかった。
夢と現実が重なるには、まだ早すぎる。
それでも、胸の鼓動は止まらない。
彼の姿が視界から消えるのが怖かった。
「また……会えますか?」
掠れた声で問うと、アレクシスは柔らかく微笑んだ。
「きっと。だって、約束したから」
その言葉に、胸の奥の何かが確かに反応した。
魂が記憶している。
この出会いが、再び始まる“物語の続き”だということを。
アレクシスが去ったあとも、真白はしばらくその場を動けなかった。
白い花を握る手の中で、ひとひらの花びらが光を放つ。
淡く溶けるように消えていくそれは、まるで夢の名残のようだった。
そしてその夜――真白は再び夢を見た。
霧の庭で、金色の光が微笑んでいた。
「もう一度、君を見つけるよ」
その声が、確かに聞こえた。