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翌朝、真白は早く目が覚めた。
窓の外はまだ薄い靄に包まれ、世界の輪郭が曖昧だった。
手のひらには、昨夜握りしめて眠った白い花。
けれど目を開いたときには、もうその姿は消えていた。
枕元には、淡い香りだけが残っている。
――夢だったのか。
現実と夢の境界が、ますます分からなくなっていく。
思い出すたび、胸の奥がざわめく。
あの声、あの光。
「約束したから」と言ったアレクシスの微笑が、まぶたの裏に焼きついて離れなかった。
会社へ向かう足取りはいつもより重い。
信号の赤が街の朝靄に溶けて、まるで別の世界への境界のように見えた。
オフィスの入り口で、真白は立ち止まった。
――そこに、彼がいた。
アレクシス。
昨日の夢のような出会いが、現実の中で続いている。
社員証を提げ、どこか不慣れなスーツ姿で立つその姿は、どこかこの世界に馴染もうとしているようで、同時に圧倒的に異質だった。
「……どうして、ここに」
真白の声は掠れていた。
アレクシスは穏やかに笑い、少しだけ肩をすくめる。
「偶然だよ。君が描いたキャラクターのモデル――僕を、って言われて」
「……え?」
「面接で言われたんだ。“まるで君のための役だ”って」
その言葉に、真白の呼吸が止まる。
自分が無意識に描いた青年――そのままの姿で、今、目の前にいる。
夢の断片が現実に侵食していくような、不思議な眩暈。
「昨日の花、ありがとう」
真白がそう言うと、アレクシスは小さく首を振った。
「ありがとうを言うのは俺の方だ。……あれを渡せたのは、たぶん“思い出すため”だった」
「思い出す?」
「うん。約束を――」
言葉の途中で、アレクシスは目を伏せた。
「ごめん。まだ、全部は思い出せない。けれど、君のそばにいると、心が落ち着くんだ」
静寂が流れた。
窓の外、光が雨の雫を照らし、床に小さな虹を作っている。
真白はその光を見ながら、小さく呟いた。
「……僕も、同じかもしれない」
アレクシスの瞳が驚きに揺れた。
「昨日から、ずっと胸の奥がざわついてる。
会ったばかりなのに、懐かしい。
君を見ていると、何か――ずっと探していたものを思い出しそうになる」
言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなった。
記憶ではなく、感情が先に反応する。
まるで魂の奥に刻まれた約束が、呼び起こされていくように。
アレクシスはゆっくりと一歩近づいた。
その距離は、夢で何度も繰り返した“別れの距離”と同じだった。
「君がいなければ、俺はこの世界に来られなかった」
「……どういうこと?」
「君の“絵”が、呼んだんだ」
アレクシスの視線が、真白のデスクに置かれたスケッチブックへと向かう。
そのページには、光の庭を背景に立つ金髪の青年――アレクシスが描かれていた。
夢の中でしか見たことのないはずの景色。
「描くたびに、君は俺を思い出そうとしていた」
「僕が……?」
「魂は、約束を忘れないから」
その言葉が、胸の奥に深く沈む。
ふと、アレクシスがポケットから何かを取り出した。
白い花弁がひとひら。
昨日、真白が受け取ったものと同じ花だった。
「これは……?」
「君が渡してくれたんだ。前の世界で」
アレクシスは、そっと真白の掌にそれを乗せた。
花弁が触れた瞬間、微かな光が溢れた。
その光の中に、一瞬だけ庭が見えた。
白い霧と、風に舞う花。
そして、金色の光をまとった誰かが言う。
――“もう一度、君を見つけるよ”。
真白は息を呑んだ。
アレクシスの瞳の奥に、確かに同じ光が宿っている。
「君だったんだね……」
その言葉は震えていた。
アレクシスはただ微笑み、指先で花弁を包み込んだ。
「きっと、これから思い出していける。
夢と現実のあいだで、何度でも君を見つけるから」
その声が、どこまでも優しく響いた。
白い花弁が光に溶け、空気の中に散っていく。
まるで約束そのものが、再び芽吹くように。
夢は、ただの記憶ではない。
魂が辿る“再会の道”――
それが、彼らの物語の始まりだった。