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監視がついた翌朝、被害記録局の空気は、窓を閉め切っているのにどこか落ち着かなかった。廊下を渡る靴音がいつもより固く響き、受付卓の前では、見慣れない討鬼騎士団員が二人、用もなさそうに立ったまま人の出入りを数えている。ロビサは、その視線を正面から見返す気にもなれず、記録箱を抱えたまま工房へ足を速めた。
工房の中は、金属と紙と薬品の匂いが混じっていた。リュバが作業台の前で火皿を見つめ、ニッキーは帳簿ではなく紙片の束を相手に眉をひそめている。昨夜まで証拠袋へ分けていた封書の破片が、今朝は薄布の上へ几帳面に並べ直されていた。
「来たわね」
ニッキーが顔を上げた。
「朝いちで監視に文句を言う元気はある?」
「ありますが、後回しにします」
「結構。こっちはもっと腹の立つものが出たから」
彼女が顎で示した先に、銀糸入りの紙片があった。端と端が、まだ繋がりきらないまま並べられている。リュバは細い骨針で封蝋の粉を掬いながら言った。
「封蝋の配合が普通じゃない。王城式に見せかけて、記録局でよく使う樹脂が混ぜてある」
「記録局の人間が触れていた?」
「少なくとも、記録官の道具に近いものを使える人間がいた」
ロビサは喉の奥がきゅっと狭まるのを感じた。三年前の改竄疑惑が頭をよぎる。あのときも、紙と封蝋と手順の差が、人を傷つける刃になった。
「読めるところは?」
問うと、ニッキーが紙片を二枚持ち上げた。
「差出人は、ほぼ確定。筆運びも、癖のある払いも一致した」
「……母ですね」
「ええ」
覚悟していたのに、実際に言葉にされると胸へ落ちる重さは別だった。ロビサは机の端へ指を置いた。冷たい木の感触が、かろうじて足もとを繋ぎ止めてくれる。
リュバが、紙片の隙間へ淡い薬液を垂らす。滲んで消えかけていた文字が、青白く浮かんだ。
『鏡は恋を願った者を食う』
工房が静まり返った。
レドルフですら、その一文の前では軽口を失っていた。いつの間にか扉口に立っていた彼が、舞台の幕でも見上げるような目で紙片を見つめる。
「いやな台詞だ。上等な悲劇ほど、耳触りがいい」
「悲劇で済ませる気はありません」
ロビサが言うと、彼は少しだけ口元を緩めた。
「そう言うと思った」
ニッキーは別の紙片を合わせる。
封蝋の欠け、繊維の流れ、紙端の裂け目。細かい作業を積み上げるたび、隠された文章が少しずつ元の姿へ近づいていく。それは被害記録と似ていた。奪われたものを一度に取り戻すことはできない。拾えるものを、拾える順に繋ぐしかない。
「こっちも出たわ」
ニッキーが低く言った。
浮かんだ一行は、先ほどの文よりも生々しかった。
『娘まで渡さない』
ロビサは息を飲んだ。
それだけの短い文なのに、母の声がした気がした。叱るときにだけ少し低くなる声。まだ幼かった自分の髪を結いながら、きつく引きすぎてしまって、あとで不器用に撫でてくれた手。
母は何と戦っていたのだろう。
そして、どこまで知っていたのだろう。
「宛先の名は、削られてる」
リュバが続けた。
「刃物じゃない。薬で溶かして、そのあと削った。最初から誰に宛てたか隠すつもりだったんだろう」
「元同僚、でしょうか」
ロビサが言うと、ニッキーが頷く。
「可能性は高い。でも、この書き方なら、相手が裏切る前提でも書いてる。信じたいけど、全面的には信じ切れない相手」
その関係の温度まで想像してしまい、ロビサは自分の母が急に遠い時代の人のように思えた。優しくて、少し口うるさくて、夜になるといつも戸締まりを二度確かめる人だった。けれど、その人は同時に、王家の文書と鬼害記録を照らし合わせ、誰にも言わずに告発文を組み立てるような人でもあったのだ。
「手紙の全文が読めれば、開封前に出せる切り札になる」
モンシロが工房へ入ってきて言った。
班長の外套には朝露がついている。外を一回りしてきたのだろう。視線だけで窓外の監視を示し、顔をしかめた。
「だが向こうも焦っている。昨日のうちに、こちらの動きを嗅ぎつけた可能性が高い」
「だったら、なおさら急がないと」
ロビサが言った、そのときだった。
受付側の廊下で、何かが倒れる大きな音がした。
全員が一斉に振り返る。
次いで、短い悲鳴。
モンシロが真っ先に飛び出し、ロビサも続いた。廊下へ出ると、受付卓の脇で若い事務官が尻餅をついている。床には湯呑みが割れ、茶が飛び散っていた。その向こう、裏口へ続く半開きの扉が、ゆっくり揺れている。
「誰がいたの」
ロビサが駆け寄ると、事務官は青い顔で指をさした。
「れ、レイノルデ顧問が……さっきまで、裏庭で……」
胸が、嫌な速さで脈打つ。
裏口を抜けると、石畳の上に杖が一本落ちていた。レイノルデがいつも使う、持ち手の磨かれた古い杖だ。庭の植え込みは踏み荒らされ、土の上には引きずられた跡が続いている。その先の塀際には、黒く焦げたような染みが残っていた。鬼の瘴気ではない。けれど、人を眠らせて運ぶための薬煙に近い匂いがする。
ハディジャが、いつの間にかロビサの隣に来ていた。彼は塀の外へ身を乗り出し、路地の奥を見た。
「車輪の跡がある。荷車を使ったな」
「監視がいたのに?」
「いたからだろ。堂々と運んだほうが、不審が薄い」
ニッキーが追ってきて、低く舌打ちした。
「手紙だけじゃなく、先生まで持っていくつもり? 焦り方が下手すぎる」
「下手なんじゃない」
レドルフが珍しく無表情で言った。
「もう隠す余裕がないんだ」
ロビサは杖を拾い上げた。まだ体温が残っている気がして、かえって冷えた。
【続】
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#現代ファンタジー
るるくらげ