テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
1,634
#現代ファンタジー
るるくらげ
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
レイノルデは、幼い自分が鏡の悪夢で眠れなかった夜に、無理に慰めようとはしなかった。ただ椅子を寄せて、泣き終わるまでそばにいてくれた。自分の恐怖を、見苦しいものとして扱わなかった人だ。
その人が、こちらの調べを止めるために連れ去られた。
「行きます」
ロビサは言った。
「今すぐ」
モンシロは一度だけ目を閉じ、開く。
「監視付きだ。正面からは動けん」
「なら裏から動きます」
「ロビサ」
「先生は、私を見捨てなかった」
気づけば、声が少し震えていた。
「だから今度は、私が見捨てません」
短い沈黙のあと、モンシロは頷いた。
「……現場班、最小編成。表向きは旧排水路の点検だ」
話が決まるのは早かった。監視の目を正面玄関へ向けるため、ニッキーが帳簿の誤記を口実に騎士団を受付へ引き留め、レドルフが廊下でわざとらしく大仰な弔辞の練習を始める。その隙に、ロビサ、ハディジャ、モンシロ、リュバの四人が工房裏の古い搬入口から抜けた。
向かった先は、局舎の裏手から地下へ通じる旧排水路だった。今は使われていない石の通路で、下町の一部や迷の浅い層へ繋がっている。湿った壁には、古い封印札がところどころ剥がれかけたまま残っていた。
「足跡、二人分。運ぶ側が二、運ばれる側が一」
先頭のハディジャがしゃがみ込み、泥の擦れを確かめる。
「途中から増えてる。迎えがいたな」
ロビサは蒼い鏡の欠片を取り出した。今は死者の残滓ではなく、まだここに残る感情の擦過痕を拾うために使う。青い鏡面へ、断片的な像が浮かんだ。白い袖。誰かの手。眠らされた人間を急いで抱え上げる焦り。最後に、口元だけ覆った男が短く吐く。
――迷へ落とせ。
「迷へ向かってる」
ロビサが言うと、モンシロの顎が硬くなった。
「時間を稼ぐつもりか。人質を深く沈めれば、こちらは開封まで身動きが取りづらくなる」
通路はやがて、雨水の匂いから、もっと古い地下の匂いへ変わっていった。石が湿り、壁の隙間から冷たい風が吹く。迷が近い。名を失った者たちの気配は、音ではなく、肌の上を撫でるような違和感でわかる。
角を曲がったところで、低い唸りが聞こえた。
小鬼だった。
人の背丈ほどもない、瘴気の濁りが爪と口を得た程度の存在。だが数が多い。足もとの水路から、壁の割れ目から、ぬるりと五体、六体と這い出してくる。
「先生を運んだ連中の残り香に寄ってきたか」
ハディジャが舌打ちし、鉄棒代わりの工具を抜いた。
モンシロが短く指示する。
「散るな。リュバは後衛、ロビサの針を守れ」
戦いは狭い通路で始まった。小鬼の爪が石へ当たり、嫌な甲高い音を立てる。ハディジャが一体を蹴り飛ばし、モンシロの短剣が別の喉もとを断つ。だが、ただ切っただけでは霧へ戻るだけで、また別の瘴気を呼び込みかねない。
ロビサは呼吸を整え、最も近い一体へ鏡を向けた。浮かんだのは、かすれた女の声だった。
――帰りたい。
「記すよ」
誰へともなく囁き、羊皮紙へ走り書く。
『帰れなかった声がここにいる』
記録が定着すると、小鬼の輪郭がぶれた。そこへリュバが投げた銀針が刺さり、瘴気が散る。
「次!」
狭い通路で、記録と打撃を噛み合わせる。そうしてようやく道が開いた。
だが最奥に近づいたところで、ロビサの胸が急に締めつけられた。視界の端で、黒い文字が這うように揺れる。蒼い鏡の欠片が、何の前触れもなく熱を帯びた。
未来の断片だ。
暗い部屋の中央で、白髪混じりの男が膝をついている。喉もとに刃。周囲に揺れる青い光。誰かが言う。
――余計なことを知っていたな。
「ロビサ!」
ハディジャの声で現実へ引き戻された。彼の手が肩を掴んでいる。
「顔色が悪い」
「……先生が、危ない」
それだけ言うと、彼は問い返さなかった。頷いて、先へ走る。
たどり着いた先は、迷の浅層に口を開けた古い貯蔵庫だった。崩れた棚、湿った麻袋、天井から垂れる根。中央には簡素な祭壇のような石台があり、そこへレイノルデが縛られていた。目は覚めている。頬に痣があるが、意識ははっきりしていた。
その前に立つ男が三人。
いずれも顔を布で隠していたが、外套の縁に見覚えのある銀糸が織り込まれている。王城の文書係か、監察院付きの下役か。少なくとも、ただの賊ではない。
「そこまでだ!」
モンシロが踏み込む。
男たちは一瞬ひるんだが、すぐに一人が短杖を振った。床へ仕込まれていた瘴気が弾け、黒い靄が一気に広がる。目くらましだ。さらに奥から、中型の鬼が這い出した。人間の背丈を越える、腕の長い影。人を守るための誘拐ではない。証人を迷ごと潰す気だ。
「先生を連れて下がれ!」
ロビサが叫ぶ。
ハディジャが靄の中へ突っ込み、石台の縄を断った。レイノルデがよろめくのを肩で支え、そのまま横へ転がる。次の瞬間、鬼の爪が石台を砕いた。
ロビサは記録針を握り、鬼へ鏡を向けた。
浮かんだのは、男の叫びではない。幼い声だった。
――先生。
胸が痛んだ。誰かが最後に助けを求めた相手の名が、鬼の核に引っかかっている。
「あなたも、呼んだんだね」
ロビサは低く言い、羊皮紙へ刻む。
『助けを求めた声は、まだ消えていない』
鬼がひるんだ。その隙にモンシロが足を払う。リュバの投げた調律針が肩へ刺さり、青白いひびが広がった。だが決定打が足りない。
ハディジャが、レイノルデを壁際へ預けて振り返る。その目の奥に、一瞬だけ別人のような冷たい光が宿った。百年前の残響が覗いたのだと、ロビサにはわかった。
【続】