雨の音が、遠くでまだ残っていた。
夜が明けきらぬ街の片隅で、真白は傘も差さずに立ち尽くしていた。
目の前の青年――アレクシスが、歩道に崩れ落ちていたのだ。
その金の髪は濡れ、唇はかすかに震えている。
呼吸は浅く、まるでこの世界の空気に馴染めないかのようだった。
「……っ、大丈夫……?」
声をかけても反応はない。
救急車を呼ぼうとしたが、なぜか指が動かなかった。
――また、彼をどこかへ連れていかれてしまう気がした。
そんな恐怖が、胸の奥を締めつける。
気づけば、真白はその身体を抱き起こしていた。
軽い。熱がない。
冷えきった体を支えながら、自宅までの道を歩いた。
部屋に着くと、アレクシスをソファに寝かせた。
タオルで髪を拭き、毛布を掛ける。
呼吸は落ち着き、眠っているようだった。
窓の外では、朝の光が少しずつ差し始めている。
真白はキッチンに立ち、湯を沸かしながら深く息を吐いた。
――どうして、こうしているんだろう。
まだ名前も知らない、異国の青年を家に招くなんて。
それでも、胸のどこかでは“これが正しい”と感じていた。
しばらくして、アレクシスが目を開けた。
淡い金色のまつげが震え、青い瞳が真白を映す。
その瞬間、部屋の空気が静かに変わった。
「……ここは……?」
「うち。倒れてたから、連れてきたの」
真白が言うと、アレクシスはゆっくり身体を起こし、辺りを見渡した。
壁に掛けられた絵、机の上のスケッチブック。
そして、カップの湯気。
ひとつひとつを確かめるように見つめていた。
「ましろ……」
その名を、彼はやさしく呼んだ。
まるで、何年も前から知っていたかのように。
真白の心臓が一瞬止まる。
夢の中と同じ声。
――どうして、その名を。
「あなた、どうして……」
言葉を探す間に、アレクシスは小さく首を振った。
「わからない。でも、君を見たとき……帰ってきた気がした」
その瞳の奥に映る“懐かしさ”は、説明のつかないほど深かった。
真白は黙って彼の前に座る。
テーブルの上には、温かいミルクのカップ。
アレクシスはそれを両手で包みながら、小さく微笑んだ。
「この味……知ってる」
「知ってる?」
「うん。――向こうの世界で、君がよく作ってくれた」
一瞬、空気が凍る。
“向こうの世界”――その言葉に、真白の心がざわめいた。
聞き慣れないはずの言語なのに、耳の奥で意味が解ってしまう。
「……あなたの言ってること、少しだけわかる気がする」
「ほんと?」
「前にも、聞いたことがあるような……。夢の中、かもしれないけど」
アレクシスは静かに頷いた。
「夢じゃない。きっと、記憶だよ」
その言葉に、真白は何も返せなかった。
ただ、胸の奥で何かが“呼吸を始めた”ような気がした。
彼のいるこの部屋が、なぜか懐かしい。
二人の間に流れる沈黙は、初対面のものではなかった。
窓の外、雨上がりの光がカーテンを透かして差し込む。
アレクシスはその光を見つめながら、低く呟いた。
「アウレア・プロミッシオ……」
「え……?」
「約束の金。――君と俺を繋ぐ言葉」
真白は、その音の響きに心を奪われた。
意味は完全にはわからない。けれど、確かに懐かしい。
胸の奥が、柔らかく痛んだ。
「……やっぱり、君は……」
アレクシスの視線が真白に戻る。
その微笑の奥に、遠い記憶の光が宿っていた。
「もう一度、会えたね」
その言葉が、ゆっくりと真白の心に溶けていく。
現実のはずなのに、まるで夢の続きを生きているようだった。
その夜。
真白は眠りにつく前、リビングのソファで眠るアレクシスを見つめた。
月明かりが金の髪を照らし、静かに輝いている。
その光景を見ているうちに、胸の奥に小さな囁きが響いた。
――また、始まるんだ。
彼が来たことで、止まっていた時間が少しずつ動き出す。
そう確信できた。
そして真白は目を閉じた。
夢の向こうに、あの“約束の庭”が見える気がした。
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