その子は、入ってきたときから笑っていた。
「こんにちは~。なんか、変なとこですね、ここ」
明るい声だった。笑って、手を振って、椅子に座る動作まで軽やかだった。
遥は、一言も発さず、目だけを細めてその様子を見ていた。
「なんか、変な感じ。こういうのって、もっと重苦しい場所かと思ってました。
でも、こんな白くて、綺麗で、誰もいないなんて、ちょっと面白くて」
彼女は笑う。楽しそうに。
けれど、その笑顔はほんのわずか、皮膚の下で震えていた。
「……なんで来たかって? うーん、わかんないです。
なんとなく? 暇だったっていうか、……あれ? うそかも」
遥は、わずかに首を傾ける。
それだけで、彼女はぴたりと喋るのをやめた。
沈黙。
そして、ほんの少し経って、口元だけが笑ったまま、彼女は呟いた。
「……ほんとはね。笑ってないと、壊れそうなんです」
それは声というより、空気に溶けた自白だった。
「悲しくても、腹立っても、泣きたくても――全部、笑う方が楽で。
泣いたら、“うざい”って言われるし、怒ったら“お前が悪い”って言われるし。
だから、笑ってるんです。“大丈夫なふり”が一番、怒られないから」
遥は、肘を膝に乗せて前屈みになった。
しばらく考えるように沈黙してから、言った。
「お前さ、自分のこと、器用だと思ってるかもしれないけど――相当、不器用だぞ」
少女が顔を上げる。
「器用な奴ってのはな、“ふり”なんかしなくてもやってける奴だ。
お前は、“笑ってる自分”を演じて、その仮面で心を食い潰してる。
――それ、死ぬよりつらいぞ」
彼女は目を見開いたまま、笑っていた。
けれど、その目に、何かが滲んできていた。頬は笑っているのに、瞳だけが、ひどく寂しい。
「私、怒られたくなかったんです」
「傷つけたくなかったんです」
「見捨てられたくなかったんです」
彼女の言葉は、笑いと一緒に、ぽろぽろとこぼれた。
笑いながら泣く。泣きながら笑う。
――それが、彼女の“生きる形”だった。
遥は、軽く息を吐いた。
「それでも、ここに来たんだな」
彼女は、肩を震わせたまま頷いた。
「笑うのをやめていい場所が、一つくらいあってもいいと思うよ」
遥の言葉に、少女は初めて、笑わなかった。
それは“泣く”とも“怒る”とも違う。
ただ、何も隠さない顔だった。
素の顔。
何年も、自分の中に隠していた「本当の顔」。
遥は、それを見て、言葉を置く。
「お前が笑わないからって、誰もお前を捨てたりしねぇ。
……少なくとも、俺はな」
彼女の目から、ひとすじ涙が落ちた。
だが、そこに笑顔はなかった。――ようやく、笑わずに泣けたのだった。
“いつも笑ってる子”は、きっとどこかで――
一度でいいから、笑わないで、誰かに許される場所を探していた。
遥の相談室には、その椅子がひとつだけ、用意されていた。