テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「……誰かに殴られるのが、安心するんです」
その子は、笑っていた。まぶたの下にある痣を隠すように、マスクの端をいじりながら。
「家で、学校で……どっちも。でも、やめてほしいって言ったことはないです。……むしろ、されないと不安になる」
俺はすぐには返せなかった。
脳裏をかすめたのは、自分の中の“それ”だった。殴られた夜の、あの寒さの中に眠る安堵。声を押し殺して泣きながら、自分がまだ“存在している”ことに、ほっとしていた記憶。
「……俺も、似てるよ」
少し低くなった自分の声に気づきながら、ゆっくりと言葉を継いだ。
「『もういい』って、言われるまでは、動けなかった。怒鳴られるまでは、自分がいる意味がわからなかった。……だから、わかる。苦しいけど、やめたいとも思えないって」
少女の目が一瞬揺れて、笑みが消えかけた。
「でも、ほんとは、怖いよな」
「……」
「叩かれない夜のほうが、眠れない。優しくされると、不安になる。……そういうの、俺も、今でもあるよ」
「……治るんですか」
「わからない。でも、誰かに“される”ことでしか生きてこれなかった俺が、今こうして“聞いてる”ってことは、たぶん――」
俺は少し目を伏せた。
この教室に入ってくるまで、俺も毎日「お前なんか」と言われていた。机の中に押し込まれた落書きの匂い、靴に入った水の重さ。
それでも、今、誰かの話を“聞こう”としてる。誰かの痛みを、自分の中のざらつきと重ねながら。
「変わるんじゃなくて、“増える”のかもしれない」
俺は言った。
「痛みの種類が。……そして、選べるようになるんだと思う。“誰かに殴られる”以外の、息の仕方を」
少女はゆっくりと、笑みのない顔で俺を見ていた。
それが、たぶん、最初の“呼吸”だったのかもしれない。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!